テレビ朝日の深夜枠に『お願い! ランキング』という人気番組がある。
その名物コーナー[ ちょい足しランキング ]の中で、本書の著者田崎真也氏は、
近年、一見奇をてらったかのような切り口からのメディア露出も行なっている。
ソムリエといえば、一定のルールやコードで固められた厳格なイメージを浮かべるものだ。
田崎氏はそのイメージと一線を画したように映ってもおかしくはない。
しかし、それはミスリードであろう。
筆者はこう見ている。
彼は料理がワインを引きたて、ワインがまた料理を引きたてていく、
その可能性の平原を拓いていくべく、みずからのメディア機会を費やしていったのだ、と。
だとすれば、田崎真也氏がメディアで見せる「一見奇をてらったかのような」姿は確信犯である。
おそらくそれは田崎真也が「ワインをもってもてなす」ことの専従職人というよりも、
死力を尽くしてゲストの愉悦や充足を引き出すという使命の徒であった、ということと
関連しているのだろう。
また、筆者は、書籍やテレビ番組といったメディアを通じて行なう田崎氏の活動が
従来とは変わらぬ( 否、むしろかつてよりも高い )トラフィック・ヴァリューを叩き出している、
という事実に強い知的好奇心を禁じえない。
昨今は広告失速が叫ばれて久しい。
有名人の安易な起用や過剰な反復露出によっても「広告したものは( イマイチ )売れない」。
そればかりか、諸広告をむしろ「ウザい」とまで断じる消費者が増えてきた。
そんな中にあっても、田崎真也という実在が放つメディア・コンテンツは
消費者には「教導的」に映っている。
彼の修辞が特定ワインのビッグ・セールスを誘う一方で、
同じ修辞が「ワインの声を聴けた」と感嘆する聴衆を生んでいることがその証左である。
これが奇跡でもまぐれでもなんでもないことは本書[ 言葉にして伝える技術 ]を読めば自明である。
私的な経験的価値を共感価値へと昇華してみせる彼一流のプロフェッショナリズムが
随所で直截に放たれているからである。
田崎真也氏のコトバと所作は人をこう変える。
田崎氏によって人がひとたび共感価値を味わえば、
そのコトバは滲みて万人の心に根を張る。
その人のなかでその価値は何度でも何度でも再現し、
彼の所作やコトバとともに現れる。
いわば人は田崎的経験価値を何度でも賞味できる。
自分の「記憶」として。
自分の「感触」として。
自分の「一部」として。
人は田崎氏のコトバと所作を、あるいは田崎真也自身をみずからの一部としたのだ。
ある意味、人はそのきっかけとしてワインを入手(しようと)したとすらいえる。
それはさながら夏島の浜辺で拾いあげたあの貝がらのようである。
それを見るたび、夏の想い出は甦る。
あの波の音とともにあざやかにそこにある。
今、貝がらはワインである。
貝がらはコトバである。
貝がらは表現である。
そして、田崎氏その人である。
このソムリエを前にして人はワインの豊穣を初めて識るのである。
このソムリエのコトバが人生謳歌へのインスピレーションを誘うのである。
そのとき、数々の人生場面でデキャンタージュされた珠玉のコトバは
田崎真也自身と渾然一体となる。
ワインが極致のひとときを演出するかのようなその瞬間、
われわれは実はそこに稀代のソムリエが佇んでいることに気づかされるのである。
奇跡、である。
やがて、それは共感価値へと昇華し、
時間と空間とに左右されない記憶として人の心に錨を降ろすのである。
ソムリエの本懐ともいうべき光芒を放つ錨である。
( 本稿の詳細全文は拙稿[MATOLOG2]に2011年9月21日より順次公開中です。的場正信)
◆MATOLOG2 → http://blog.phmedia.co.jp/mlog2/