紀元前三世紀、シチリア島。第二次ポエニ戦争に向けた緊張が高まる中、シラクサに住む一人の天才が、友人に向けた手紙に一通の論文をしたためた。手紙の筆者は当代髄一の数学者アルキメデス。受取人は、あらゆる分野に博識を持ち、当時に最も影響力のあった知識人、“アレクサンドリア大図書館館長”エラトステネス。
「アルキメデスよりエラトステネスへ。ごきげんよう! 学に励み、自然科学の優れた教師であり、ご自身が出会ったあらゆる数学的研究に大変な関心を持っているあなたですから、ある特別な方法についてここに記、お伝えするのにふさわしいと考えました……ここで説明する方法によって、当世だけでなく後世の人々のなかにも、まだわたしたちが共有するに至らない新たな定理を発見できる人が現れると考えています……」
当時の文明的水準では、アルキメデスの研究内容を真に理解し、さらに発展させるだけの数学的素養を持つ人間は限りなくゼロに近かった。だからこそ、彼は世界の知識が集う場所の、もっとも信頼できる友人に自分の思考を遺し、委ねたのだった。
本書は、この一通のパピルスの巻物に書かれた論文が、戦乱の略奪や劫火から辛うじて逃れ、写本へと姿を変え、文字を消されて祈祷書へと再利用されながらも、二十世紀に再び発見され、激しい損傷を受けながらも、消滅の寸前にようやく真の理解者を得るまでの戦いの物語である。
古代西洋文明の政治・文化情勢を解くための様々な鍵を収めた書物が、様々な災厄に襲われながらも、幾重もの幸運に恵まれた末、デジタル化されて姿を留めることを許された。同じ棚に収められたであろう同胞たる書物がごっそりを姿を消していく中、約二千二百年もの時を経て声を伝えることを許された。
アルキメデスの論文だけではない。この祈祷書には、アルキメデスの論文以外にも、さまざまな文献から切り離された羊皮紙が再利用されている。アリストテレスの古代から伝わる注釈、ヒュペレイデス(古代の十大弁論家)の失われた演説、十世紀後半の賛美歌集、ある聖人の生涯、未だ出典が未知の少なくともふたつの写本…… 発見された時点で既に欠落してしまったページも多いとはいえ、とりあえずは、この偉大なる発見の物語にささやかな祝杯をあげたい。
本書のもう一つの見所は、この写本の解読プロジェクトで、これだけでも一冊の本になりえるだけの面白さがある。スポンサーにして写本の落札者『ミスター・B』は、この写本の展示と研究を申し出てきたウォルターズ美術館学芸員、ウィリアム・ノエルを解読プロジェクトのリーダーに選び、最大の信頼をもってこの写本を託した。
自称「本が好きなだけの陽気な男」は、アルキメデス写本の解読に必要な技術は殆ど持っていなかったが、“アルキメデスの友”として情熱的に本プロジェクトの調整・伝達・手配に携わり、彼のもとには、この写本を研究するために最も相応しい傑物たちが、あたかも惹き付けられるように集ってゆくことになる。
写本の解読に従事した古代ギリシア数学史家、リヴィエル・ネッツによる解説も、アルキメデス数学を一般向け初等幾何学レベルに抑えて分かりやすくまとめられており、この写本の内容と意義を伝えるのに相応しい。
X線元素分析法が解読の決め手になったという展開は必然であると言えるが、読み取られた文字や文章は、それを理解できる人間の目に触れて、はじめて意味を持つ。この写本が彼に出会えて幸福であったことは、『ストマキオン』序文からの再発見のくだりを読めば理解できるだろう。
この写本が発見されなかった間に、大いなる回り道を経て現代数学が誕生したのは周知の通りである。しかし、アルキメデスがその源流の一端を担っていたことは明らかであり、今回の発見からも、その偉大さには瑕疵が生じるどころか、ますます輝きを増している。