ミッドウェー海戦以後「見敵必戦」の信条を持ち海軍の中でも屈指の闘将と言われる第一航空艦隊司令長官角田覚治中将。一方で顔も体もまるまるとした印象で「カクタカクジ」ではなく「丸田丸治」というニックネームもあり、飾らないおおらかな性格で人情に厚く涙脆く、理不尽と思えば上官だろうと遠慮なく意見具申、一方で部下に対しては慈父のように部下思い、また家族思いの良き家庭人でもあったらしい。特にサイパンと共にテニアンに米軍上陸が迫った最期の時も、角田司令長官は多くの民間人に何度もお礼の頭を下げ、「皆さんは民間人ですから、玉砕しなければならないことはないのですよ」と話したことでもわかる。角田中将は、新潟県三条市諏訪の出身、旧制三条中学から海軍兵学校第39期で150人中102番で合格、卒業時は45番。同期には伊藤聖一、志摩清英がいる。2年上に井上成美、小澤治三郎、1年上に栗田健男、三川軍一、杉山六蔵、1年後輩(第40期)に山口多聞、大西瀧次郎、宇垣纏、寺岡謹平、福留繁、阿部孝壮がいる。海軍大学校は23期で卒業22人、主席は田結穣、次席は保科善四郎だ。因みに22期(21人)の主席は岡新、次席は阿部勝雄、24期(20人)の主席は福留繁、次席は山口多聞だ。元々は砲術科出身だから大艦巨砲主義者だが、1929年(昭和4年)に第一航空戦隊参謀(中佐)になってからは以後航空戦隊司令官拝命が多い。しかし最後の中将司令官の下には軍艦も飛行機もない、機密書類を焼却という状態で、1944年(昭和19年)7月31日を最後に消息は不明、戦死である。隣のサイパンではバンザイクリフ、スーアサイドクリフのあの悲惨な映像だ。この悲劇の後も太平洋戦争はまだ1年も続くのだ。本書は角田司令官の一生をくまなく描くが、第5章山本司令長官戦死す、第6章家庭人としての素顔、第7章テニアンに死すが特に印象深い。