著者及び著書についての予備知識が全くなく、新古書店で手にしたのだが、非常にすばらしい内容に感動した。
1924年に発表されたもので、副題に「映画のドラマツルギー」とあるように無声映画当時の映画についての映像論が大部分を占めているが、先行の演劇・文学・絵画・写真との比較の上に立って動画としての映像が本来的に持っている意味合いについて筆を走らせている内容で、音楽・字幕が介在していない映像論であるだけ映像単体の作用についてより深い理解を促す議論になっている。それは映像に常に現前する意味の過剰さと多義性についての詳細を示し、その過剰さをどう構成して統御するかというテクニックについて多くを語っている。この考察は組写真がもつ多方向の意味をどう編集するかという誌面レイアウトの技術にも通じ、そこから考えると音声・字幕つきの映画が組写真に付くキャプションに一定の意味の枠付けをさせるのと同じ構造を持っていることに通じると思ったが、動画映像にはより強い現在性と同時性があることが語られている。写真から動画映像への跳躍についても思いが広がっていくし、テレビは音声・字幕つきの映画の技術をより洗練させていることにも気づいてくる。
著者の履歴を見るとジンメル、ディルタイ、ベルグソン、ルカーチ、マルクスといった人々に影響されていて、この著書を読んでいくとやがて頭に浮かんできたのはヴァルター・ベンヤミンのことだった。ベンヤミンも上に挙げた思想家には大きい影響を受けていたし、ベラ・バラージュの文章のタッチ、対象の扱い方がベンヤミンの評論ととても似ていて、ベンヤミンのものした「言語一般及び人間の言語について」(1916年)の方法論を適用したかのような内容なのには驚いたし、面白いと思った。バラージュがベンヤミンより8歳年上で、同じような影響を受けているとはいえ、方法論や全体的なタッチまで共通しているのは何らかの影響を思わせる。この二人には何か接点はあったのだろうか。どちらもどこかしら「異邦人」的なスタンスから論を立てている気がするし、その点でも二人は魅力的だ。
現在の映画につながる映画論というより、広義の映像論といった味わいがあって楽しめる一冊。、