「思考が視覚を批判し、視覚が思考を試練にかける。」浅田彰が本書の帯で記したこの言葉が持つ凄まじいダイナミズムを本書は余すところなく示している。読者は、中平卓馬という一人の人物から発せられた言葉と作品が、「思考」と「視覚」という両極に引き裂かれながらも圧倒的な魅力を以って現前する場に立ち会うことになるだろう。一読すると、鋭く深く綴られた中平の言葉は、多様なスタイルを取りながらも明確な一本の筋を持っているように思われる。しかし、その筋は、見返しに差し挟まれた近作によって途端に打ち消されてしまう。のべつ言葉の筋は作品によって打ち消され、作品の筋は言葉によって打ち消される。それはこれまでの中平の姿とも一致するのだが、両者は互いに断絶したものではなく、それぞれが強力な芯を持った磁場として、斥力と引力を併せ持ちながら葛藤を続けている。その様な両極への揺れ動きが持つ振幅の豊かさにこそ、私たちが写真と関わり続ける契機が秘められているのだが、中平が生むそうした振幅に対して私たちは如何に応答することができるだろう。私たちは、あらゆることに周到に眼を配りながら思考をすることが可能になった「厚い世界」の中で、多種多様な主義主張を整理し選択を積み重ねることで思考を形成することに慣れきってしまっている。中平にそうした周到な選択は無いが、他の追随を許さぬ何かがあることを本書は強く訴えかけてくる。それこそが「見続ける涯の火」であるのだろう。「火」は「厚(熱)く」読者を待っており、多様な読みに向かって燃え続けている。読者一人一人は「火」に油を注ぐ存在であらねばならないし、この五百頁を越す厚い書物はそれを可能にする。その点において、ベンヤミン、バルト等と並ぶ写真のカノンとなるだろう。