かつて、アメリカの哲学者ジョン・デューイ(John Dewey:1859-1952)は、人間が持つ優れた視覚的な記憶力に注目し、人間が持つ高い視覚的な記憶力こそは、人間を他の動物の間の決定的な違いである事を指摘した。(ジョン・デューイ著『哲学の改造』岩波文庫参照)即ち、他の動物よりも、視覚的な記憶に優れた人間は、例えば、空の雲を見て、それを過去に自分が見た物の記憶と比較し、「あの雲は、人の顔に似ている」等と、考える能力を持って居る事、そして、それこそが、人間の特有の能力である高い思考能力の基礎である事を、デューイは、指摘したのだった。
デューイが、この事を指摘した20世紀前半、脳に関する科学は、まだ、黎明期と呼ぶべき段階に在った。しかし、今日の進んだ脳科学は、様々な研究によって、デューイのこうした人間観を裏付けつつあると、私は、思ふ。即ち、今日の脳科学は、「視覚的物体認識」と呼ばれる脳機能が、霊長類を特徴ずける物である事を明らかにして居るが、絵を見、描くと言ふ行為こそは、霊長類の中でも、特に人間において顕著に発達した、その「視覚的物体認識」の為す技(わざ)に他ならないのである。
本書の内容は、一口に言げば、デューイのそうした人間観を、今日の、最先端の脳科学によって裏付ける物である。即ち、絵を見る、絵を描くと言ふ事が、人間の脳のどの様な構造と働きによって行なはれるのかを、多くの図や、症例と共に解説した、極めてレベルの高い一書なのである。
著者の岩田誠教授は、頭痛などの権威として高名な、日本を代表する神経内科医である。この為、脳梗塞患者に見られる空間認知の変化の観察など、心理学者や生理学者とは違った視点から、脳が絵を見、描く仕組みを分析して居る点が、医学以外の分野で脳研究に携わる人々や、その他の脳に関心を持つ読者には、興味深いのではないだろうか。
日本を愛したデューイは、21世紀の日本で、この様な本が書かれた事を喜んで居るに違い無い。
(西岡昌紀・神経内科医)