学生の頃、哲学者西田幾多郎の「善の研究」という著書を読み、ちっとも頭に入らず、ただ字面を追っていた記憶がある。
でも最近、西田幾多郎(1870−1945)の歌集が岩波文庫(西田幾多郎歌集 岩波書店 2009年11月刊)から出ているのを知って、恐る恐る手に取ってみると、今まで難解の象徴だった西田幾多郎が、ふと身近に感じられた。同時に、過去に字面だけで解していた彼の思索の跡が、鮮明になり、「西田幾多郎=難解」というトラウマが氷解していくように思えたのは、実にふしぎであった。歌の力であろうか。
以下の西田の三つの歌が、私をそんな心境に導いたように思う。
第一の歌(1923年53歳)
我心深き底あり喜びも憂(うれい)の波もとどかじと思う
深い歌である。西田は、1911年「善の研究」を出版し、1913年43歳にして京大教授となった。その後、1919年妻寿美が脳梗塞に倒れ病床につくと、翌年1920年には、長男謙が病気のために早世と不幸が続く。その中での歌。この第一の歌は、不幸の中にあっても、己の使命のようなものを自覚しているような歌に受け取れる。
第二の歌(1924年、54歳の時の歌)。
世をはなれ人を忘れて我はただ己が心の奥底にすむ
実は、この歌は、西田と同郷(石川県金沢)の友で世界的な宗教学者鈴木大拙(1870−1966)も、初版の序の中でとっている歌である。大拙は、この歌を評し「彼は至誠と云うことをよく云った。これはただの倫理性をもったものではなくて、霊性的自覚からの言葉である。」と言った。至誠とは、「至誠天に通ず」という言葉があるが、天や神仏に誓うほどの誠実さをもってというほどの意味である。
哲学をするという、このような態度をいうのであろう。「己の心の奥底にすむ」の「すむ」とは、日常茶飯事として自身の天命である哲学の道に命を賭けて取り組むとの姿勢と解することができる。
58歳(1928)で京大教授を退官すると、何故か、鎌倉に移住をし、そこを終の棲家とする。西田は、京都から鎌倉に移る心境をこのように記している。
「私は20年近くを京都に過ごした。・・・しかし京都は古都というにはあまりにも都らしく、山川の美もまた優雅に過ぎる。特に私には実感を動かすものが多く、空想の羽ばたく余地を与えない。鎌倉には尚廃墟らしい所が多い。特に骨肉相疑い、同族相戮し、描額の地に人間の罪悪の歴史が集められて居る如き感がする・・・」(歌集所収 P85「鎌倉雑詠」より引用)
西田は、美しく洗練された京の都を去り、荒々しい武士たちが相争った古都鎌倉こそが、終の棲家に相応しいと感じたのだ。あるいは哲学の道をさらに究めるためには、人間の憎悪の歴史がそのまま空気となって残っているような鎌倉こそ、自身の想像力をかき立ると感じてのかもしれない。
そして詠んだ第三の歌(1928年58歳)。
争ひし敵も味方も影もなし夕月かかる鎌倉の山
西田は、1945年6月13日、太平洋戦争の敗戦の報を待たず、75歳で永眠した。その遺骨は分骨され、鎌倉の東慶寺、妻の遺骨のある長楽寺、そして京都の妙心寺にある。特に、北鎌倉の東慶寺には、西田の生涯の友であった鈴木大拙の墓があり、ふたりは今も人の世の有り様を語らっているように並んでいる。巻末には、詳細な年譜もあり、この書は、西田の人生を知るには、最良の入門書と言えそうだ。