もう何年も前だが、小さな新聞社の記者として永田町の取材をしていたことがある。
豪快な人たらしあり、恐喝王のごとき悪漢ありで、「政治家というのはやはり怪物だ」と感じさせられ続けた日々だった。しかし松下政経塾OBの政治家たちというのは、実に「普通の人たち」だった。これは褒め言葉として言っている。政経塾OBの政治家には、変にこちらを恫喝することも、おだてあげることもなく、庶民感覚に通じ、記者と同じ目線で語らってくれる人が多かった。率直に言って、私の中の政経塾OBの印象は結構よかった。
しかし「政経塾取材のプロ」として、同塾に張り付き続けてきた著者による本書を読んだ後、私は自分の甘さと、そして著者の洞察の深さをしみじみと感じさせられた。
本書は松下政経塾の「政治家養成塾」としての内容には多くの問題点があり、そのOB政治家には改革を成し遂げられるような人物は少ないと批判するものだ。ようするに政界の暗部をえぐるルポものだが、田中角栄の金と女を追った『寂しき越山会の女王』(児玉隆也)や、部落差別問題とともに生きた野中広務の素顔に迫る『野中広務 差別と権力』(魚住昭)などの同ジャンルの名著に比し、その内容は全然生々しくない。本書の中には、数億円の金が動く話や、何かの利権構造をつくり上げていくような、「壮大な悪」の物語はまったく出てこない。
しかしこれこそが「政経塾OBの本質」なのだ。彼らは結局、政経塾で「養成」されてでてきた存在に過ぎない。「政治家になる」ということが目的化してしまった存在で、「この国をいい方向に変えたい」といった大志どころか、「利権をつくって金を貯めこみたい」という野心さえないのだ。「悪」にさえなれない、ブロイラー的に養成された「政治ごっこ集団」、それが松下政経塾OBという存在なのだと、本書は示唆しているように私は感じた。
人は好き好んで「怪物」になるわけではあるまい。好きで人を恫喝したり、たらしこんだりするような者もおるまい。人がそこまでするのは、何か猛烈に成し遂げたい大志、野望があるからだ。しかしまともな社会人経験さえなく、ただ「政治家になりたい」というだけの心で複数の政党を渡り歩いているような政経塾OBに、大志、野望を見出すことは困難である。それが「怪物になりきれない普通の人々」で、彼らが終わっている原因である。
しかしそうした本書の批判を、読む者はわが身に引きつけて考える必要がある。大局に立つパワーゲーム・プレーヤーたる政治家たちに執拗に「庶民感覚」を求め、漢字の読み間違いや、その通う飲み屋の値段などをあげつらい、「彼らは“普通”ではない」と「怪物」の特性をそぎ落としていったマスコミ報道に喝采を送り、テレビ映えのする「普通の人」、つまり政経塾OBに票を投じて彼らを永田町に送り込んでいった力は何なのか。それは読者一人ひとりが持つ票だったのである。
確かに庶民感覚は大事だろう。しかしメディアや有権者があまりに政治家にそれを求めすぎた結果、「巨悪」ではないにしても、何の中身もない「普通の人」が、遂に首相にまでなる事態になってしまったのである。これを日本人はよく考えねばなるまい。
政経塾OBに、具体的にどう中身がないのか、そしてそれをどう考えるべきなのかの答えは、本書にある程度までは記されている。しかしそれを超えて考えるのは、本書を閉じ、メディアの喧騒からも距離を取って、国民の一人ひとりが胸に手を置きながらなすことである。