「日本人は訴訟が大嫌い(だけどアメリカ人は躊躇しない)」「日本の裁判所は政策行動をしない(だがアメリカの裁判所は積極的に政策に口を出す)」−あたりまえとなった感のあるこの2つの「常識」に異議申立するのが本書です。
例えば、交通事故に基づく訴訟提起。アメリカと比べて日本は圧倒的にその数が少ないのですが、著者はその原因として、日本では損害賠償額や過失相殺割合について事細かに定例化されており「相談センター」や書籍等を通じて誰でもアクセス可能なので、訴訟を起こす必要性がないことに求めます。「文化」という曖昧で包含的な概念で「違い」を説明してしまうと、制度や規範といったその他の社会的概念での説明を忘却してしまうことに気づかされる点重要です。
また、後半では日本の裁判所の規範・政策形成への積極性が豊富な事例とともに論じられていきます。再び、交通事故の事例に戻ると、先述の定例化は実は行政や立法ではなく、司法、それも下級裁たる東京地裁の交通専門部(民事第27部)が主導権をもって意欲的に進められたことが明らかにされます。他方、アメリカでは「事例の個別性」を尊重するコモンローの伝統からこのような定例化は進みませんでした。
本書を読了した後に浮かび上がってくる日本の裁判官像は「勤勉・有能で取扱の統一性・公平性を保つためには自律的に働くことを厭わない」と言ったところでしょうか。基準の一律適用の結果、確かに被害者の性別によって損害賠償額に思わぬ差が生じるなどの不都合が生じています。しかし、定例化に向けた裁判官達の努力により事故処理の迅速化が図られ全般として公衆の利益増大につながっていることに、著者は好意的です。