最近、ドラマや音楽を通して韓国に興味を持っている。
と、その程度で読み始めた僕は今、ただただ圧倒的な司馬遼太郎の知識と思索の前に叩頭している。イージーな気持ちで読み始めて、なんだかごめんなさい。でも結果オーライ、といってはまたまた軽いかもしれないけれど、韓民族や朝鮮半島を理解する上で読んでよかった。
感激のポイントは大きく2つある。
1つは、朝鮮の上代史をざっと俯瞰できたこと。三国(高句麗、百済、新羅)時代、そして新羅の統一の物語は、日本とのかかわりに思いを致さずにはいられない。もっといえば、ウラル・アルタイ語族やツングース民族について、さらに韓族と同様そこにルーツを持つ日本人とは何かについて、深く考えるきっかけになった。
「朝鮮人の通癖として、観念で激情する」と司馬氏。「もっとも日本の若者が極左や極右になる場合も、かつて同祖であった血が騒ぐのか、多民族にはちょっと考えられぬほどに観念の一大振動体になり、政治青年という古代巫人(シャーマン)そのままの憑依的人格になる場合が多いから、われわれは原型としては似ているのである」。仰々しい文体に人を食ったようなユーモアをまぶすあたり、やはり常人の筆の力ではない。
もう1つの感激ポイントは、儒教思想をおぼろげながら理解できたことだ。
「儒教国家というものは自然のままの人間というものをみとめない。人間は秩序原理(礼)でもって飼い馴らしてはじめて人間になる」。そして「一原理によってぼう大な数の人間を飼い馴らすというのが中国古来の国家のしごと」であり、それに倣った中世以降の李氏朝鮮は、だからこそ500年の長きに渡って君臨できた、という説には目からウロコが落ちた。
ひるがえって、競争原理の権化のような日本の歴史。それに嫌気がさしてドロップアウトしようとした中世末期の藤原惺窩(せいか)の話がおもしろい。もろ手をあげて共感はしないでおくが、僕が「強いもの勝ち」の日本の歴史にいまいち興味が持てない理由は、このあたりに潜んでいる気がした。
両者の歴史を、世界の歴史に照らしながら相対化して、司馬氏は倭(日本)人は「文化は興すが、決してみずから文明というこのおそろしいものを興そうとはしない」と説く。このあたりでもうーむ、と僕は唸りっぱなしなのであった。「これは決して欠点ではなく、文明というのは元来荷厄介な面もあり、そのことは中国の儒教文明の末期をみても、あるいはインド文明と回教文明にこんにちなお押しひしがれているインド民族をみてもわかる」と、中庸を保った歴史観を披露している。
まだまだ僕が本書を読みながら感じたことはどっさりあるのだけれど、とりあえずこれくらいにしておこう。最後に、印象的なこの言葉で今回のレビューを締めくくりたいと思う。
「東アジアにおける朝鮮の地理的環境というのは、それ自体が悲痛というべきであろう。地理そのものが政治であるというのは、朝鮮が負いつづける業以上のものかもしれない」――司馬遼太郎