本書が刊行された後、80年代になると、日本の好景気に乗じてポストモダンとしての数々の「東京論」が議論され、サブカルチャー的に現代東京の都市に関する積極的な再評価が行われてゆく。当時の乱痴気騒ぎを完全に失ってしまった現代の日本において、いまだにそのような「東京論」を絶対的に信奉するひとがいるとは思えないが、しかし、本書におけるような東京への決定的な「諦念の感」もまた、みなが諸手を挙げて賛成しうるとは思えない。
一見、西欧へと完全に傾倒しているかのように見える本書の都市の評価軸は、都市の文脈を微細に分析しようと試みる今日の都市計画的視座において、少々ナイーブにすら思われるかもしれないが、実はそうではない。本書で述べられたいのは、むしろ西欧主義への頑なな拒絶である。コルビジェが「生まれつきの美的感覚」以外の「何者をも拒絶する強い生得観念」をもっているとして、好意的に評価しておきながら、しかし、結びにおいて「人間性を読み取ることが出来ない」として退けられているのは、そこにこれまで圧倒的勝利を収めていた西欧主義に対する決別が表明されているのだ。
「太平洋戦争から復員して焼け野原に立った私達のような若い建築家の卵も、真剣に東京の復興について考えた」という印象的な一節は、戦争を知らないわれわれの心に深く突き刺さる。戦後、全てがひっくり返った世の中にあって、以前の愛国心が逆転して極端な悲観に包まれたことは、多くの知識人に認められる傾向である。しかし、その悲観とは、やはりなお、一つの「愛国」の変奏であるのだ。ならば、われわれ現代に生きる日本人が、日本の都市を眺めるとき、本書のような評価軸を心の片隅に置いておくことを忘れてしまってはならないはずである。