この血脈(中)には佐藤愛子の初婚そして疎開時代が赤裸々に書かれている。戦争疎開の地に愛子が選んだ静岡県興津町は、偶然父親の青森生まれの作家佐藤紅禄が青年時代師事し可愛がれた正岡子規が病床六尺で興津への転居を熱望していた町でもあった。紅禄は子規が名付けた俳号といわれ、伊藤左千夫は子規の興津転院に尽力していた。しかし血脈ではこの事には触れられていない、多分親子とも知らなかっただろう。子規が興津転居を熱望した理由は?、子規の作品に興津に係わるものが少ない、多分親友の夏目漱石が明治22年東海道線開通時の夏療養で遊び、俳友島崎藤村の話等から興津を想い浮かべたと推察する。
親子の疎開先の具体地区名は小説からは読み取れない、忘れ去りたいものかも知れないが、直木賞受賞から数年後の週刊誌に興津を懐かしんでいた記事があり、その後血脈を読み静岡興津の疎開を知る。紅禄は戦後りんごの唄で羽振りの良くなった佐藤ハチロー家に興津から移転した。紅禄は野球好きで巨人の星の原形となる少年小説を書き、大阪タイガース初代オーナー松方氏に虎風荘の前身の独身寮に自宅を売却している。松方氏の縁戚の別荘が興津にもあった。
2012年4月は興津町からワシントン市に桜贈呈、タイタニック号沈没、吉本興業創業100周年記念になります。