現代の日本文学において秀異な古井由吉氏の作品を生み出しているのは、ひとえに老翁の明視と老健でしょうか。
古井氏の作品を読んでいると、官能が澄んでくるのが分かり、これまで己の官能が鈍磨していたことを思い知らされます。五官が捉えていた表層に覆われ隠れていたものに思いを致すようになり、更には思考も澄んできます。
古井氏の作品は過去に内向との誹りを受け、現在でも首を傾げる向きがあるかもしれませんが、その作品は決して内を向いたきりのものではありません。内への強靭な志向は否定できませんが、それを非難することはできないでしょう。内向が極まれば外が開かれはしないでしょうか。
自身の官能による受容とそれを巡る思考の独白とも随筆ともつかぬ叙述。時間的にも空間的にも限られたささやかな物語。その間の一読唐突とも読める往来は、小説の埒外へと逸脱しているように思う向きもあるでしょうが、物語の表層を剥いだ後の、感情や思考さえもが表層でしかない底流で通じ響き合っています。物語を幾何学的に捉えることを止めさえすれば、大きく開かれた官能と自由闊達且つ厳密な思考によって織り成された物語と言えるでしょう。その場では生と死、男と女、過去と現在、あらゆる境域で互いが混じり合い、汽水湖のような鎮まりのなかで睦みが交わされています。
そして本書中最も注目すべきは、末尾の「子供の行方」でしょうか。戦時の悲愴の記憶は、官能にその跡を遺して筆者を苦しめます。思考による記憶は対象化によって恐怖の度を抑えられていても、官能にこびりついた記憶は内に闖入して恐怖の度が抑えられることがありません。老いるに従い、官能の記憶は強度を減じますが、記憶の静まりから恐怖は変わらず膨らんできます。筆者は燥いで忘却を決め込むことなく、常に絶えず恐怖の記憶を語っていくことを自らに課すのです。老いてなお、と言うよりも老いてこその作家の姿勢には心を打たれます。