近年、出雲の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から多量の銅剣、銅矛、銅鐸が出土したことは記憶に新しい。この衝撃的な事態に梅原猛氏は、出雲神話は大和の神話を出雲に仮託したものであり、出雲には本来関係がないとしたかつての著作『神々の流竄』は大きな誤りであることを自覚し、本書を書いたという。84歳にして300ページをこす大著を生みだすその活力には心から敬意を表したい。しかしながら、出版された作品は社会的な存在として、風通しのよい場所で論評の対象となることはいうまでもない。
期待をもって本書を手にした。読み終えた今、率直な感想を述べるなら、残念ながら著者はかつての誤りをここでも繰り返してしまった、ということである。
かつて全面的に否定した出雲神話を、今度は全て真実を反映していると、180度認識を転換している。個別の記述は錯綜を極めるが、発想の根底において、単純極まりない all or nothing の図式に支配されてしまっている。つまり、贖罪意識もはたらいてか、批判精神を欠いた全面的な出雲神話讃歌になだれこんでいる。
思い込みの激しさも相変わらずだ。出土した多量の銅剣、銅矛、銅鐸を著者は、国譲りをして身を隠したオオクニヌシに捧げられたものとみる。そう思いたくなる心情は評者もわかる。しかし、そういう思いが先行してしまい、さしたる論拠もなしに話が展開してしまうのである。
自己批判の書と思いきや、批判さるべき対象は本居宣長、津田左右吉、梅原猛の三者だという言葉にも驚く。
自分は間違っていたといいながら、いつの間にか、自分を本居宣長、津田左右吉のレベルにまで格上げしている(もともと、そう思っているのか?)。自己アピール怠りないのである。いやはや、鬼気迫る執念というべきか…。
また、本書のなかで、著者が唱えた法隆寺怨霊説に根本的に異議を唱えるものはなく、いまや定説、とまでのたまう。法隆寺怨霊説が根本的な誤認から始まっていることをすでに武澤秀一氏が『法隆寺の謎を解く』において具体的に論証している。ちくま新書から出ている同書はすでに4刷を数え、広く知られている。また武澤氏は『文藝春秋』2009年6月号でも「法隆寺は燃やされた」と題して論陣を張り、梅原説が成り立たないことを丁寧に説明している。これらを黙殺しているのか、本当に知らないのか…、編集者は注意を喚起すべきだったろう。(畏れ多くていえないか?)
これでは、どう見ても“裸の王様”状態ではないだろうか。
(梅原ファンには申し訳ありませんが、梅原氏に敬意を表しつつ、あえて一言呈しました)