司馬氏の長編はほぼ読み尽くしましたが,あえて一冊をあげよ,と問われれば,この「菜の花の沖」をえらびます。
作品の発表から相当な年月が経過していますが,内容はけっして古びていないと思います。
社会の広域化(今風に言えば「グローバル化」)に伴う「人」と「もの」の交通・流通の活性化がその時代に所属する人間の精神に与える影響がテーマなのです。
江戸時代は,鎖国政策という制約下のもとではありますが,内国的な広域化の進んだ時代でもある上,物語の終盤では,互いに未知の文明といっていい,日本とロシアが激しく衝突します。
そのような時代が生み出したひとつの典型としての「高田屋嘉兵衛」という快男児の一代記です。
司馬氏の長編では,まず人物を描くのではなく,人物の属する「時代」そのものを描き,その時代の大きな流れの中で登場人物たちがいかにふるまったのかを描く,といった手法がとられることが多いようですが,本編では,日本・ロシア双方の史料から主人公である嘉兵衛の言動・行動が立体的に明らかにされていくのであり,その展開がなかなか面白いです。
氏の他の作品のような合戦シーンもチャンバラシーンもほとんどなく,むしろ日本とロシアが戦端を開くのを,必死の外交交渉で回避するストーリーです。
アメリカの中東政策に関連して,一時「報復の連鎖」という言葉が流行りましたが,嘉兵衛は政治になんの責任を持たない町人の身分ながら,ほとんど徒手空拳でこの連鎖を断ち切ることに成功しています(まさに快男児です)。
文庫本第5巻の「ロシア史」はたしかに冗長ではありますが,「文明の衝突」を描く上で,ロシア史をまったく描かないのも片手落ちともいえるので,個人的には許容できると考えています。