ごく最近、はじめて泉鏡花の小説を読んだ。読んだのは代表作のひとつ「高野聖」。幻想的、神秘的で、ときにはグロテスクな異世界が眼前に広がってくるかのような文章がとにかく素晴らしかった。
読んだのは岩波文庫版だが、解説氏は鏡花の文章を「派手で、なまめかしく、妖艶」と表現していた。それに加えるとしたら極めて映像的な文章ということだと思う。
だから、最初は文語体的な文章にてこずりながらも、異世界が眼前に広がってきたのだろう。
読みながら、「語り手」である旅僧と同じ異世界に引き摺りこまれそうになった。
注意しながら読まないと意味を取り違えてしまいそうになるので、すらすらという訳にはいかなかったが、とにかく頁を括る手が止まらなかった。
で、次に手に取ったのが、同じく異世界を描いた怪異譚「草迷宮」。
それしか読んでいないので「高野聖」との比較になってしまうが、自分には、小説全体を覆う幻想的な空気や文章のなまめかしさは「高野聖」に、物語のおもしろさは「草迷宮」に軍配が上がるように思う。
ところが、物語としてはおもしろいにもかかわらず、読むのに難儀したのは「草迷宮」の方だった。
これは、「高野聖」のストーリーがある意味単純で、「語り手」もほぼ旅僧一人に限定されているのに対し、「草迷宮」は語り手が次々と入れ替わり、そこで語られる話の時系列も過去と現在を行ったり来たりするのが理由だ。
語り手も時系列もバラバラだが、構成自体はそれ程複雑なものではない。難儀したのは文章によるところが大きい。
鏡花の文章は素晴らしいものの、やはり文語調の文章は、ちょっとでも気を抜いて読むと、語り手や時系列が見えなくなるからだ。頁を行ったり来たりしながら読み続けた。タイトルどおり迷宮にはまってしまう感じがした。
しかし、そうして読み進めていくうちに、ばらばらだった時系列が徐々に一本の線になり、クライマックスに向かっていく頃には、最初に難儀していたことなど忘れてしまった。
正直、一回目に読んだ際は、小説を味わうというよりもストーリーを理解するだけで精一杯だったが、日を置かず読んだ二回目は頁を括る手が止まらなかった。三回目は文章を味わうように読んだ。
もちろん、鏡花の文章は素晴らしい。加えて複数の語り手、過去と現在、これらが絡み合いながらラストに向かっていく構成が実に見事な作品だと思う。