「汐見さんはこのわたくしを愛したのではなくて、わたくしを通して或る永遠なものを、或る純潔なものを、或る女性的なものを、愛したのではないか…」と汐見が愛した藤木千枝子は手紙に書いている。
千枝子のこの疑いが妥当だとすれば、汐見が千枝子の兄をも愛したということが少し理解できる。彼は永遠を愛し、純潔を愛し、女性的なものを愛し、それを感じさせる人を愛した。それを愛することで彼は己の孤独を癒やしたのだろう。だから彼にとって愛の対象は男とか女とかいったことで限定されない。
そういう意味でこの小説は「同性愛」を扱ったものと言うのは正確ではない。むしろ魂の愛とでもいったらよいだろうか。
男が女を愛するという自然な図式の裏には、多分に肉欲という生物的作用が働いている。汐見の孤独は「魂の孤独」であって、肉体的な繋がりで癒やされるようなものではなかった。だから彼は千枝子を抱こうとするその時、急激に冷めていくのである。
「それは一つの燃えるかたまり、僕の欲望の具象化された現在だった。それはもう千枝子ではなく、僕の書いている小説の中の少女、作者が恣にその運命を操ることのできる一人の登場人物にすぎなかった。(中略)僕が感じていたものは、愛の極まりとしての幸福感ではなく、僕の内部にある恐怖、一種の精神的な死の観念からの、漠然とした逃避のようなものだった。僕は何かしらが怖かった。僕の手の中に抱かれている千枝子が、ふと、僕にとっての未知の女、僕の内部への闖入者のように錯覚された」。
千枝子を抱くことで彼女をただの女に変え、愛の対象ではなく、肉欲の対象とすることに汐見は躊躇した。それは自分の信じた愛を自身で裏切ることではないのか…。
彼は考えすぎで、もっとシンプルに考えればよかったのかもしれない、というのが自然な見方だろうが、そんなことは彼もわかっていたはずである。だが、現実の世界では彼は摩擦を生じずにはいられない。それは自我(理想)と世界(現実)との摩擦である。
「今はもうこの自我の他に喪うべき何ものもない。そしてこの自我という奴が、僕の最も嫌いな代物だ」と汐見は言う。彼を孤独に追いやったもの、それはこの肥大した自我であった。自我は現実では不可能な理想を求めさせ、彼はその狭間で苦しみ続ける。そこで彼は無謀な手術を志願し、術中死していくのであるが、もし自殺だったら、こういう彼の動向を、やれ臆病だの、やれ人生からの逃げだの、やれ同じような思いを抱えている人は他にもたくさんいるだのという、まるで圏外からの批難が彼を襲ったであろう。だから作者はそれをかわすため、自殺という方法をとらずに汐見を殺したのである。彼を批難できるものは彼と同じ孤独と苦しみの中でそれでも希望を見出した人に限られる。だが、そんな人間は一人も存在することはない。
小説は美しく彩られてはいるが、現実は残酷なものである。我々の社会は、彼のように孤独な魂を救う術を見出すことができるだろうか。