この切れ味は一体何なのであろう?初めてお目にかかった、「復興期の精神」は、もう遠い昔の事で、確か、1967年高校教科書の現代国語ー2であったように思う。興味を感じた私は、学校図書館でそれを探したが無かった。手に入れる手段は本屋への注文しかなく、今日のコンピューター注文が出きる時代ではない。当時の市立図書館はそれこそ蔵書は貧弱で在るはずも無かった。
ようやく手に入れて読んで見ると、知らない人名がワンさと出てきたのは高校二年生の知識としては仕方あるまい。内容は濃密で、その迫力を感じた。その一つは教科書に出ていた、レオナルド・ダ・ビンチを取り上げていて、万能の人間の書いた、「鏡面文字」の謎を論じている。「復興期の精神」には、数々のアンソロジーが載っていたのを覚えているが、何にしても、取り上げられたテーマに、前衛的な鋭い批評が加えられた、話題の豊富さに驚きを隠せない。花田の、「女の論理」から「笑う男」まで、この批評の集合体に共通しているのは、極めて鋭い言質と共に、ともすれば、前衛のもつ居丈高な咆哮でもあり、この吼える論理は、敗戦前の国家プロパガンダの言動にも似たものが有る。
この本と似たものに、松岡正剛の「遊学」があるが、文章の表現から受ける問題の解像度や、論理の肌理からすれば、残念ながら松岡は、花田に負けている。松岡の方が、小生の様な、ズブの素人には読み易いのであるが、エネルギーは、花田の方が高い、所謂、アクが強い。評論集は、読み易さなどどうでも好い、問題は主張とエネルギーだ!と言う向きも有ろうが、敗戦直後の殺伐とした世相に、この評論集を読んだ者は、キット驚いたに相違ない。この本の持つ影響力は、様々な方向で起こり、それは狼煙の様に、暫らく、文学・評論・思想・哲学、等にその火照りのエネルギーを放射したのであろう。その放射は、それこそ数々の輻射を生んだ、古いこの評論集は、今も、その輻射を可能にするエネルギーを放射し続けている。特に若い人達が、この本の持つ、咆哮のエネルギーに曝される事を希望する。