良寛の書というか詩を初めて読んだ。これも禅のひとつの形なのであろう。鎌倉から江戸に至って禅も成熟してくるのだ。いやこれを成熟と言うべきなのだろうか。退廃というのだろうか? ここには禅のあの息苦しい戒律というものがない。というかその対蹠点にある遊戯の境地、融通無碍の世界が広がっている。つまり自由の肯定を謳歌し、堪能し、あらゆるくびきを断ち切って、世俗の因果を超越し限りなくゼロの強度を目指す仙人の境地か?
では悟りとは何か? 宗門に入りそこで一定の地位につきそれなりの役を果たすことが坊主の職務なのか? 21世紀の現在でさえ同じではないか? 僧でありながらすべてを捨てゼロの地平から世界を見る。これが良寛なのだ。悟りは必ずしも寺の中で得られるわけでない。ひょっとして悟らない、ということの悟り、いわば「逆悟り」というものがあるかもしれない。
こうした自由の発見とそこにはじめて見出された悟りは硬直化した禅に風穴を開けるものかもしれない。たしかに正統な禅からみると異端である。しかしわれわれは良寛をはたして否定し去ることができるだろうか? 現に良寛を肯定し慕う状況にある。ここには在家と出家の垣根など何もなく、聖と俗の切り結びがある。ユーモアがあってアフォリズムがある。寂量があってわびさびがある。俗世間への批判があって快楽への肯定がある。自然への繊細な感性があって人間への温かい視線を失わない。
柳田聖山の訳がまた現代的で面白く、詩の中で良寛を「ボク」と表記しているところや、できるだけ読みやすくされた工夫が随所にある。たとえば「我、世間の人を見るに、総て愛欲に籌(はか)らる。」これが「ボクが出会った俗物たちは、全く、愛欲のカードに左右されていた。」となる。
禅を脱力させれば良寛になるのだろうが、それでもやはり禅になっている。自由という贅沢を引き換えに乞食と托鉢をしながらの極貧の草庵生活のなかに見出した良寛は「欲と色と神の世界」がどんなものかはっきりと見据えていた。