玄武書房の辞書編集部は新たな辞書『大渡海』の出版を企画する。中心となるのは変わり者ではあるが言葉に対して人並はずれた感性とこだわりを持つ馬締光也。しかし『大渡海』が世に出るまでには予想以上の時間が必要だった…。
今年2012年発表の本屋大賞に輝いた小説です。
馬締光也や同期入社の西岡正志、辞書編集部に配属された入社3年目の岸辺みどりといった面々をそれぞれ主人公とする短編が連なる連作集のような構成になっています。
辞書作りのバック・ヤード話は確かに興味深いものです。
掲載する単語を選ぶ際に、何を基準として選ぶのか、語意を説明する文章の長さはどうするのか。
頁数が膨大になるのが常の辞書ならではの、薄くても裏が透けることなく、一定の強度をもった、そして頁を繰る指に適度にからまる紙の開発話。
ゲラがあがってきたところで、本来収録してしかるべき単語が抜け落ちていたときにどう対処するのか。
こうした辞書作りという地味な作業における労苦の数々を知る楽しさは、確かにこの小説にあります。
しかし、わずか260頁程度の短い作品であるため、登場人物たちが辞書作りの途上で人生にとって大切な何かを学び、そのことで人生の舵を少し切る様子が、短兵急に描かれているのは否めません。長年月の間、辞書ひとすじに携わった馬締たちの思いが読み手に説得力をもって伝わらないのです。時間をじっくりかける紙幅がないためか、彼らが“学ぶ”過程は、時間とともに達成された熟成というよりも、まるで神からの突然の啓示のごとく唐突です。
特に辞書『大渡海』の監修者である松本先生の存在がとても薄いことに落胆しました。
小説の終盤に彼がたどる姿を見ても、それまで彼がどのように『大渡海』に熱くかかわってきたのかがほとんど描かれていないため、先生に対して馬締が感じるほどの強い思い入れが、私の心の中に生まれなかったのです。先生には出版会社の社員とはまた異なる意味の、彼自身の辞書にかける思いと命のほとばしりがあってしかるべきなのに。
辞書編纂にかける人々のやけどするほど熱く、鬼気迫る姿を描いた書にはもっと優れたものがあります。かつて私が心躍らせながら読んだ2冊の書を以下に紹介しておきます。
サイモン・ウィンチェスター『
博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話』(ハヤカワ文庫NF)
高田宏『
言葉の海へ』(洋泉社MC新書)
*42頁にある「現実を鑑みるに」という表記は誤りです。「現実に鑑みるに」というのが正しい助詞の使い方です。