本書を手に取る方が功利主義に賛同的なのか批判的なのかは知らない。皆さんは「最大多数の最大幸福」という功利主義の原理を聞いてどのようなイメージをするだろうか。それは結局、多数派の独裁を正当化してしまい、少数の幸福が多数の幸福、より大きな幸福のために犠牲にされる事を正当化してしまう。今となっては功利主義はしばしばこのように批判される。結論としては私もそのように思う。
しかしながら功利主義の古典である本書を直接読んだ時、我々の目に入るのは必死で少数意見、優れた少数、多数に嘲笑される個性的で独創的な発想を擁護し、そしてそれが社会の発展に貢献する可能性を熱烈に論じる功利主義者ミルの姿である。彼は確かに個人主義者であり、進歩主義者でありそして何より自由主義者であった。
この事は功利主義の理論的問題をないものとする理由にはならない。今となっては功利主義は自由主義の主流理論によって常識的な批判対象となり、乗り越えるのが当然の理論となった。その問題点は様々なものが指摘されている。そもそも快楽幸福を最高の価値とする事が正しいのか。またそうだとしてもその計算が可能なのか。計算が可能だとしてもそれは少数を犠牲にしてしまうのではないか。功利主義は快楽幸福の平等さを問題にはせず、ただ総量のみを問題にする、これは不味いのではないかなどなど。今や右からも左からも批判される功利主義だが、未だその思索から学ばれる事は多い。そして本書の意義や、ミルの偉大さが否定されるような事もないように思う。
繰り返すが功利主義が理論的帰結として少数派の抑圧を正当化しうるにしても、それは決してミルの意図するところではなかった。これに関して最後に一つの事実を付け加えておけば、ミルが生きた時代はまだ多数派が少数派に抑圧される事の多い時代であり、社会の改善と進歩は多数派が力を持つ事によってもたらされる事が多かったそうだ。だが今は時代が変わり、むしろ多数派が少数派を無視し抑圧するような時代が到来しているのではと思う。功利主義が進歩を担う原動力となる時代は終わり、同じものが現状維持や抑圧を正当化する時代になったのである。