本書を通して著者は「もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの陰も異常性も無く、つまり人生を肯定したまま、しかも非常に分かりやすい理由によって、決行される自死」(55頁)について語る。著者は本書の完成後に、事実自死を遂げる。
まず、読後の感想から。読ませる。久々に、夢中になって読み切った。全体も細部も論理的であり、自説「自死の優位性」を説得する点において首尾一貫している。著者の思考は観念論的でなく体感的思考なので、読書中、心と体がついていける気持ちの良さがあった。だがあるいは人が予想するような、自死あるいは自殺を扇動する類の書ではない。むしろそのような生き方(死に方)もあり得る、と控えめに、しかし自信をもって主張している。
個人的には、ソクラテスの解釈について、安易に権威に迎合してプラトンの解釈をありがたがることをせず、自分の頭と体で思考し、クセノポンの解釈を堂々と支援している点がかっこいいと思う。
本書からでなければ得られないものは実に多かった。その中でひとつだけ、「極みの理論」を取り上げたい(85頁以降)。著者は、悲観主義者ではない。今ある幸せを感謝し、噛みしめている。そのような幸せの絶頂を著者は「極み」と呼んでいる。その個所を読んで、私も今ある幸せを喜び、味わうことができるようになったと思う。現状に不満でいるよりも、「今」を有難く受け止め、「今」に生きることができるようになった。
本書冒頭の浅羽通明氏の解説も素晴らしい。本書全体を適切にまとめているばかりか、作者に対する敬意と愛情が感ぜられる。また浅羽氏は控えめに、以下のような疑問を投げかけている。「須原一秀氏の『自死』論を読んで私が感じたのは、『自死』する者、例えば須原氏を取り巻く他者からの視点が、欠けてはいないかという想いでした」(25頁)。厳密には、著者は他者からの視点を全く欠いていたわけではない(193頁以下、263頁など)。だが全体として、浅羽氏のおっしゃることに同感である。詳しくは25-28頁を参照されたい。
浅羽氏の疑問に加えて、私としては人の命を絶つことの是非を問いたい。自分の命については、他者の命と違って、人の命を絶つことの倫理は不問になるだろうか。命は「神」、あるいは「大いなる自然」から受けたものではないだろうか。筆者によれば、それらは観念論的思考の密輸入と言われそうだが、事実私たちの命は、私たちの知らないところから―人がそれを「神」と呼ぶのであれ、「大いなる自然」と呼ぶのであれ―来ている。その命を断つというのは、著者のような潔い、明るい積極的な自死であっても、私は思い留まらせたい。著者は本書の資料を調べているときに「ちょっと不愉快な感情が起こること」(273頁)を覚えたという。著者はそれを「根深い『受動的自然死派』系統の伝統的思い込みにとらわれている」と判断することだろう(196頁)。私は敢えて言う。著者はそれこそこの点において観念論的だったと思う。その「ちょっと不愉快な感情」は、「自死をすべきではない」という体の声ではなかったか。著者の面目躍如たる体感的思考を追求するなら、どんな形にせよ、自死をすべきではない、と結論したのではないだろうか。
本書が私に大きな衝撃をもたらしたのは事実である。ここに書ききれない、本書でなければ得られない多くのものを得た。それでもなお、著者の自死に、大きな悲しみを覚える。会ったこともない著者に、生きていてほしかった、と思う。それが私の体感的思考である。