2004年から辺見庸を襲った脳出血と結腸癌。続けざまの病魔に見舞われながらも、「人は生きてあるかぎり、どうあっても形骸たりえない。たとえ形骸に酷似していても断じて形骸そのものではない」(本文)という強靱な意志のもと、「復帰」第1作目となるのがこの『自分自身への審問』である。本人の弁では「寸止め」状態ある肉体だが、「辺見節」も筆致も相変わらず冴え渡っており、「まつろわぬ表現者としての矜持」(渡辺創氏,北海道新聞社)は全くもって健在である。今後ともジャーナリステックな眼を持った、“まつろわぬ表現者”としての活躍を大いに期待したい。
ところで、辺見庸に対しては、様々な「左右」からの批判が存するわけであるが、私の知る代表的な批判的言説をみてみたい。先ず、「右」側では「個人の思い込みや個人の体験から極めて恣意的に一般的な状況認識や原則を導き出す姿勢」などを「批判」するものがある。この“極私的”姿勢の、一体何が問題なのであろうか。このフレーズはそっくりこの御仁に送り返そう。人はおよそ、自分の影から逃れることはできないのだ。蟹は甲羅に似せて穴を掘る―この御仁も私も、そして辺見庸も…。
次に、「左」側では、新左翼党派の元カードルで、今は一端の文人気取りの男が「政治には1度として責任をもつことなしに『民主主義の不在』」を声高に語って恥じない辺見庸」などと雑言を浴びせかけている。この男にとって「政治」とは、メットにゲバ棒、それに党内遊泳らしかったのだが…。今は「造花の園」(同)といえる文壇の片隅で売文業に勤しむこうした輩に、「物言うな、かさねてきた徒労のかずをかぞえるな」(同)という言詞の意味、さらに辺見庸の“抗い”は永遠に理解できまい。