『自分を育てる読書のために』は、気鋭の学校司書の奮闘記ともいえる。著者の小幡章子さんは、思春期の子どもたちに「何よりも大切なのは本についての知識でもなければ、紹介のテクニックでもなく、子どもたちとのあいだに信頼関係を築くことなんだ」(p22)とおっしゃっているが、まさに、小幡さんは、一人一人の子どもに「ぴったりの本」を見つけるために苦労し、そこからよろこびを作りだしていることが窺えた。
彼女の取り組みで興味深いのは、子どもたちに本を手渡そうとたいそう努力しているのだが、それは、「読書」を目的にしているのではないということである。いや、もちろん「読書」なのであるが、それは、ある子どもにとって大切な1冊の本を見いだし、その1冊と丁寧に向きあう「読書」を奨励しているのである。これが「自分を育てる」ことに通じるのであろう。多読や速読を称揚しているのではない。
そのために彼女は、子どもの名前を覚え(双子の少年の名前を覚えられなかったエピソードは痛い)、好みを知り、読書歴を鑑み、その上で、お勧め図書を2、3冊用意する。そして、そこで終わってしまわないのが彼女のすごいところである。彼女は、ことあるごとに機会を見つけては、その子が1冊の本を読了できるようなサポートを惜しまない。読んだところまで一緒にあらすじをふり返ったり、登場人物の名前を確認したり、挫折しかけている子どもには、「まずここまで読んでご覧」と付箋をつけたり、さまざまな方法を見つけだしている。「信頼関係」ができていなければ、中学生には「うざい」と逃げられるだろう。
これは、学校司書しかできない仕事であり、たいへんなエネルギーを要するであろうが、子どもに本を手渡す上で、とても重要な仕事である。これが可能なのは、この中学校に学校司書が常駐していたからであると思う。そういえば、米原万里さんも、かつて学んだチェコの小学校の図書館で、読んだ本のあらすじや感想を口頭でしゃべることを学校司書に要請され、それが大きな力になったとお書きになっていた。「読書」とは個人的な行為であるが、このように司書とわかちあい、同じ本を読んだ人と作品について話しをすることで、自分の読書が深まって、その行為が自分を育ててゆく力にもなってゆくのだろう。
小幡さんが、「ぴったりの本」を見つけ出すことに真摯であるのは、彼女の選ぶ本を見てもよく解る。『ゆうかんな女の子ラモーナ』、『小さな山神ススナ姫』から『影との戦い』まで多岐にわたっている。中学生だから「この本を読むべき」という自主規制も課題意識もない、大胆でのびやかな選書である。「読むべき本」ではなく、「じっくり丁寧に読み堪能して欲しい質の高い本」を選んでいるというべきか。子ども任せにして、「欲望を満たす本」「読みやすい本」を許容するのではなく、責任あるおとなとして自信と愛を持って本を手渡す司書の姿は美しい。