私と空気に内外はあるであろうか。
西洋の伝統では、主観・客観体制、線形時間、物理的空間により世界が切り取られた。つきつめると死体解剖学の世界である。
だが、前提となる枠組みが個々の経験に先立ってあるというのは臆見にすぎない。
オートポイエースは、1980年代ヴァレラ、マトゥラーナにより提唱された。二人とも西洋の辺境に位置するチリ出身というのは象徴的である。
外界からの刺激の大部分は直ちに廃棄される。そして、認識は常に事後である。その上、言語的認識には多くの限界がある。
河本のオートポイエースは、他の四感とは全く異なる触覚性体性感覚のはたらき(行為)を手掛かりとして意識を介さない世界と物とのかかわりの組織化を定式化する。触覚は、物において自らに触れるという途方もないことが出来る。その中で、「身体力感」(どこに力を向けようとしているかのマトリクス)、「密な間接性ー荒川修作」(カップリング)、「ランディングサイトー荒川」(最近接領域ーヴィゴッキーーでの身体移動のための位置指定)等々の新たな言語が生まれている。
情動についての洞察は眼からウロコである。
情動回路は「運動系あるいは認知系」の作動(調整機能)である。何かが起こる、その手前のところではたらいている情動のことである。自らの行為の進行に気づく「気づき」(西田幾多郎の「自覚」)と行為を通して出現してくる現実に実践的に気づいていく(遂行的注意)「気づき」である。
情動は不快なものを避け、快を求める場合ではまるで外界の事物が情動にとって何であるかを知っているように作動する。
情動は、情動が情動を産出するオートポイエーシスではない。もう一つ上のシステムであると考えた方がいい。
情動系は、全く質の異なる二つの系からなる二重作動(高次認知機能の手前で作動している基本的な認知行為能力)である。
この二つは相互隠蔽(ヴァイツゼッカー)の関係にある。そして、言語を介しない。「イメージ(遂行的)」がダイレクトに「気づき」と繋がっており作業領域を共有している。
「自己」についても同様。
情動にはある種の強弱の変動がある。仮に、「自己」と呼べるものがあるとしても連続的に産出される「自己」ではなく、作動への「気づき」が調整のはたらきのために区分したその都度作動する「自己」である。
「意識」も指令系でも認知系でもなく調整系である。経験のプロセスの中で出現する一つの躊躇(ー荒川ーはたらきに選択のための隙間を開く)のことである。だから、その都度の出現である。意識と運動も相互隠蔽の関係にある。
意識下には、高次認知機能とは異なる回路で形成された「巨人」が隠れているが人はそのことを完全に忘却している。
臨床という実践の場を通すことによってオートポイエースは見晴しがよくなった。
行為(はたらき)、情動、意識、自己についても。
ヴァレラは、中観に親しんでいた。
華厳で表現すれば、「巨人」が世界と「相即相入」で戯れている。であろうか。