「最後の小説」になるはずだった『燃えあがる緑の木』の第三部は、
途中まではもっぱら猟奇的な「性」を描いた作品で、
「おいおい、最後なのにこんな内容でいいのか?」とやきもきしながらも、
心のどこかでは妙に納得していたような覚えがあるのだが(笑)、
この作品にいたってはタイトルとカヴァーからして猟奇性全開、
しかも引用されるのが、ポーの『アナベル・リー』とナボコフの『ロリータ』という、
ともに幼女愛の王道を行く作品で、ほとんど阿部和重の向うを張らんばかりの
この不健康さ加減には、「大江さん、やるなー」と思わず感心してしまったのだった。
ポーとナボコフに加えて、おなじみのマルカム・ラウリーからの引用が繰り返されるほか、
クライストの小説に描かれた、16世紀ドイツのコールハースの反乱を、
維新前後の二度にわたる「メイスケさん」の一揆(これについてはむろん、
大江氏のさまざまな作品で繰り返し描かれている)と結びつけ、
そのシナリオを国際派女優サクラ・オギ・マガーシャックの
主演映画に提供しようという筋の流れにも、
率直に惹きつけられるものを感じたのだが、
年老いた作家と、駒場時代の同級生であるプロデューサーの木守、
さらにサクラの3人が勢揃いして、さあこれからと思い始めたところで、
唐突に打ち切られるように物語そのものが終ってしまうことには、
最後で肩透かしを食ったような物足りなさを覚えた。
『懐かしい年への手紙』なみに劇的な結末を予想していたせいもあるが、
本文中に再三差し挟まれる引用はいいとして、
結末近くになっても相変わらず引用ばかりが続くというのでは、
それがいかに優れた眼識を感じさせるものであっても、
結局は満足いく結末を考え出すことができないまま、
他人の作品に丸投げしているかのように、どうしても感じられてしまうのだ。
(そういう意味では、『憂い顔の童子』の結末にも同じ不満を覚えた。)