本編で描かれているのは芸者駒代を中心とする新橋花柳界の人間模様であるが、やり方に
よってはいくらでも複雑なストーリー展開が期待できる題材(谷崎なら『卍』並みのドロドロした
人間関係を描くに違いない)にも関わらず、荷風の筆は多くの事を語りはしない。そう言うと
いかにもストーリー的に物足りないかのように思われるが、荷風の本質は谷崎のように複雑な
ストーリーを理路整然と語ることではなく、「空気」「雰囲気」を雅俗混交的な独自の文章で
我々読者に伝えることにあり、本編では今では失われた新橋花柳界の雑然としながらも情緒に
溢れた世界が十分に味わえることだろう。その意味では肝心の「空気」がいかにも希薄な
『墨東綺譚』などよりもずっと荷風の本質を表している作品と考えられる。(事実、「荷風ファン」
を自任する丸谷才一も墨東綺譚は「過大評価」と評している)。