以前にこの著者の『言語の脳科学』も読んだが、実はそんなに面白いとは思えなかった。脳科学の方から積み上げて言語に迫ったというより、チョムスキー流の言語学が先にあって、そこから脳の研究方針を組み立てているとしか思えなかったから。
この印象は、本書でも基本的には変わらない。「プラトンの問題」に触れた箇所で、著者は「この現象を説明するには、言語は生得的だということと、少数の例からパラメーターが決められるということの二つの考え方がどうしても必要」(p77)とした上で、「これはチョムスキーという人が提唱した『言語生得説』というものです。多くの論争もありますが、それに代わる有力な理論はありません。だから正しいのだということにはなりませんが、批判するならば、それに代わる強力な理論を出す必要があるでしょう」(p78)と述べている。
ただ生成文法の理論にも随分変遷があるワケで、著者がどのような水準でチョムスキーの名前を出しているのかは、もう一つ分からない。上に引用した生得性とパラメーターの問題にしても、どの程度の生得性、どのようなパラメーターを想定するかで、理論は全く相貌を変える。本書を読んだ印象としては、人間の言語習得には「何らかの」生得的要因が作用している、そしてその際には「何らかの」パラメーターが介在している、という程度のものではないか。しかもこれは脳研究の積み重ねから導いたというより、チョムスキーの言語学理論から天下り式に脳研究の指針として設定したという印象が強い。
いや、私はそれを頭から悪いといっているのではない。脳研究には計算論的なアプローチで突っ走っている研究者だっているわけで、私はそれらに少なからぬ関心を抱いている。しかし少なくとも現状では理論研究と解剖学的な知見との間には相当の隔たりがあって、両者の混同は戒めるべきだし、本書だって注意深く読めば、実は脳の話とチョムスキーの話はそれほどリンクしていないのだが、この著者の書き振りにはそのことへの畏れが足りないように感じる。
畏れが足りないと言えば、英語学習を扱った第5章で、脳を見て習熟度を判定できるという話に続く、「こういうものが本気で教育とリンクして、言語だけではなく数学などにも使えるような形で発展していけば面白いでしょうね」(p142)。さらに進んで「入学試験の代わりに脳を見れば、テストの日にたまたま調子が悪かったとか、ケアレスミスをした、そういう心配はなくなるかもしれませんね」(p147)。この発言に対しインタビュアーが「脳を見て、正当な評価をしてあげるというわけですね」と問いかけると、我が意を得たという風に「それは、まさに大学が目指しているところでもあります。その人が大学に入って勉強するだけの基礎学力を持っているかどうかが、これでわかります」と答えている。あるいはさらに右脳と左脳の非対称性の研究に関連して、「もしかしたら、脳を見ただけで『通訳になった方がよいですよ』と言える日が来るかもしれません。もっと大事なのは、テーラーメイド教育をする可能性です。その人に合った形で、(中略)教育が出来るようになるかもしれません」(p162)。
私にはそれは、悪夢のような時代に思える。