「クオリア」について茂木はこんな風な説明をしている。
---(以下引用)P19---
人間の経験のうち、計量できないものを、現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。
(略)
およそ意識の中で「あるもの」と他のものと区別されて把握されるものは、全てクオリアである。
赤い色の感覚、水の冷たさの感じ。そこはかとない不安。たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験が様々なクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。
ところが、科学は、私たちの意識の中のクオリアについては、その探求の対象としてこなかった。探求の対象にしたくても出来なかったのである。一体、脳という物質に、なぜ心という不可思議なものが宿るのか、その第一原理を明らかにする努力を科学は怠ってきた。方法論的に歯が立たなかったのである。
---(引用終わり)---
そのように「クオリア」を扱えない「科学」が何を扱っているのかと言うと、前記、引用部の直前に茂木は、小林秀雄を引き合いに出しながら『科学は、経験を「計量化できる経験」だけに絞った』(P17)と書いている。
ところで「クオリア」に関する説明部分には『計量できないものを、現代の脳科学では「クオリア」(感覚質)と呼ぶ。』と書いてあって、そもそも科学の探求の対象からこぼれおちたもの(計量できないもの)を「クオリア」と呼ぶようになったっていうのに、科学はそれ(クオリア)を対象にしたくても出来なかった、って・・・おかしくねえ?。
科学は別にそれ(クオリア)を対象になんかする気はなく、端っから目もくれずにいたから、事改めてそれを「クオリア」などと呼ぶようにしたんじゃないのかい。すくなくとも茂木の説明からすれば、科学の探求の対象(計量できるようなもの)になった時点で、定義上それは「クオリア」ではなくなるということで、そんなもの科学的方法論で歯が立たないのはあたりまえじゃないか。
茂木は自身も関わっているらしいその営みを「脳科学」だと自称しているが、では、いつから「科学」は「計量できないもの」を扱うようになったのか、「計量できないもの」を扱うご自身の営みがどのように「科学的」なのか、なんの説明も与えておらず、その論述が本当に、(脳)「科学的」なのかは、極めて怪しいと言わざるを得ない。