力を込めて民主主義を擁護するローティとデリダは、
民主制が哲学的あるいは合理的あるいは普遍的基礎づけによって確保されるとは考えず、合理主義・普遍主義を厳しく批判する。
●連帯を夢見るリチャード・ローティ
「哲学の訓練をへた者としては、私は形而上学批判に大いに熱を上げたが、民主主義国家の市民としては、
形而上学批判が ― 非常に長い目でみれば別だが ― それほど役に立つとは考えていない」
「紛れもないプラグマティストである私は、理論は道具のようなものだと思っている」
「無様でぎこちなく、しかも何をさしているのかわからない」とは、ハイデガーの「存在」に対するコメントである(笑)。
●連帯を断念したジャック・デリダ
「どんなに説得的で疑いを入れない討論や説得にも力や暴力がある」
「私は自分が哲学者であることを主張するとともに、いつまでも哲学者でありたいと思っています」
「私が哲学史上の偉大な人々、特にフッサールから学んだものは、
無益で脆弱な経験的言説の内部にとどまらないためには超越論的な問いを提起しなければならないこと、
・・・超越論的な問いを果てしなく革新する必要があるということでした。しかしその問いを革新するには、
虚構や偶発性や偶然性に含まれている可能性を考慮しなくてはなりません」
「民主政治に哲学的反省が欠かせないのは、民主政治そのもののダイナミックスを理解するためには、
力や対立は根絶できないという事実から生まれるありとあらゆる結果を考えてみる必要があるからだ」
哲学的反省あればこそ、合意の特権化に内在する全体主義的傾向を感知できるのだと、
差異の対決できる場(=民主制)の確保を提唱するシャンタル・ムフ女史の序論が実にいい。