桜間弓川師は、私が能楽堂に通い始めた70年代後半の頃には既に他界されて久しく、その素晴らしさは語り継がれていても、実際の舞台を見ることのかなわない「伝説の能楽師」だった。この一巻は、弓川師だけでなく、ワキ宝生新、アイ・山本東次郎など、伝説の名人達の舞台を伝えてくれる貴重このうえないものだ。
外国人への紹介用として作成されたためにだろう。前半のかなりの部分が省略され、シテの一声の後は、クドキ他の聞かせどころもなく、一気に、
"あらうらめしや いまは打たではかない候まじ"
で始まる後妻打ちのシーンに飛んでしまう。残念といえば残念だが、それでも、”枕にたてる破車 うち乗せ隠れ行こうよ”で衣をかついで後見座に退くまでの前半の見せ場には息をのむ。謡・型・声・姿のいずれも絶品とされた弓川師の魅力を伝えて余りあるシーンだった。
明治期の復興から大正、戦前昭和にかけて、能楽界は名人、名手綺羅星のごとくだったと言われる。昭和10年に撮影されたこの「葵上」は、当時の能の充実を伺わせてあまりある記録でもある。また、晩年の舞台を見ることができたシテ方・桜間道雄師や小鼓・幸祥光師の壮年期の姿、ワキの宝生弥一師の若々しい姿と謡に接することができるのも望外の余録だった。