稚拙とさえ感じられる朴訥とした文体が、物語の神話性に非常に良い効果をもたらしている。
ブッダからはじまる親子孫三代を描いているのだが、それぞれの人生について語っているのではない。
語られているのは事象それのみである。
むしろこの小説には主人公という存在がないのだと思う。
例えばブッダか誰かひとりを中心にして、その人生についてじっくり書くこともこの作者にはきっと出来たろう。
だが作者はそうせずに、たった100枚程度の枚数で父子孫の物語を書いてしまった。
故に語り得なかった部分が多く存在し、読者はその部分を肌で感じることになる。
まるで巨大な物体の表面を、その正体を知らずに撫でているような。
だからこそこの小説は”壮大な”物語となった。
しかしこの”壮大さ”はあくまで横に広がるだけで、奥行きを持たない。
そこがこの小説の神話的な部分と言えるだろう。
神話というのは普遍であるということ、普遍であるということは時間に束縛されないということだから。
ブッダを書いているがその宗教的な問題についてはこの作品ではいっさい触れていない。
だから登場人物は全く架空の存在でもかまわなかったのだ。
けれども作者はブッダという存在を使った。
これは非常に巧みな戦法であったと言えよう。
ブッダという人物が広く知られているために読者にイメージをされやすいこと。
なにかしらの意味合いがあるのではないかと、深読みされやすいこと。
そもそもブッダ自身が神話的であること。
物語の”壮大さ”を支えるためにはまことに最適な「素材」であった。
このあざとい戦略と抜群のセンスに、作者の実力を私は見た。
年齢から言って作者が相当小説の修行をしたのは間違いないだろう。
きっと堂々たる大家になれるだろうと、期待している。
果たして次は何をしかけているのか、今から愉しみである。