タイトルが示す通り、本来の宗教上のタブーを、日本の仏教者たちはこともなげに日常のものとしている。
どういう言い訳がありえるのか、やや皮肉な興味で手に取った。
出家者の肉食妻帯は江戸時代までは幕府から厳しく禁じられ、僧侶の女犯は死罪、遠島を含む重罪だった。
が、明治5年4月25日の太政官布告132号「今ヨリ僧侶ノ肉食妻帯畜髪ハ勝手タルベシ」により、いわば「自由化」された。
これ以降、日本の仏教者たちはこぞって肉食妻帯を始め、100年後のいま、僧侶の妻帯はついに日常の風景となった。
本書は、この世界的に見れば極めて奇異な日本仏教あるいは日本の仏教者の発生を、肉食妻帯という象徴的なキーワードを用いて考察したものである。
この奇異な風景を理解するポイントはいくつかあるが、そのひとつが以下の考察である。
・日本人の宗教観は伝統的に自然宗教的で、戒律に基づく禁欲主義はもともと民族の性格に合わない。
・明治以前は国家が身分秩序を維持するために僧侶の破戒行為を厳しく取り締まり、そのため「僧侶」が維持された。
・しかし明治以降、新政府が身分制度を廃止し、それとともに国家による「僧侶」の維持機能も消滅した。
・その結果戒律を守る気分が緩み、日本的な宗教観に沿って水が低きに流れるが如く現在の日本仏教の風景が生まれた。
しかし、実は僧侶の肉食妻帯は、真宗にだけは鎌倉の昔から認められていた。
このダブルスタンダードこそが日本仏教を考察する上では非常に重要なポイントだ。
本書の約半分は真宗という「異端の仏教」への考察で、これを抜きにして本書は語れない。
「真宗以外の日本仏教の大勢は、かつての真宗教団が(肉食妻帯主義のために)他宗や一般社会から受けていた嫌悪や侮蔑の感情を含んだ異端視のことなど忘れたふりをして、肉食妻帯公認の甘い果実を手にいれたのである。そして、その軽率で利己的な選択の結果として、僧侶という職業にまとわりつく胡散臭さとか、仏教界全体にたいする漠然たる不信感といったものが、明治時代から平成の今日にいたるまで、日本の社会には確実に広がってきたということもできる。」P163
ここが本書の核心のひとつである。
本来、仏教の僧侶は聖職者であった。
グルメとかセックスとかカネといった俗世の欲を捨て、厳しい修行を積んで衆生を仏のもとに導いてくれる存在だった。
だからこそ尊敬の対象になるし、逆に期待を裏切って欲にまみれた「なまぐさ坊主」には世間の目も厳しい。
しかし一方で、「一種享楽主義にも通じる欲望の肯定が日本人の宗教的伝統には明らかに存在して(P105)」いる。
このギャップ、すなわち、戒律や教義を忠実に守ることをよしとする原理主義と、日本民族の本来的性格に適合した現実的な世俗主義の間で揺らぎながら、日本化していったのが現在の仏教、ということのようだ。極めて興味深い指摘である。
考察が広範にわたり洞察も深い。そのわりに全体に論旨は平易で分かりやすい。
「生臭さ坊主」への冷ややかな視線で手に取ったが、事態はそれほど単純ではないことがよくわかった。
惜しくも著者の中村氏は先年64歳の若さで亡くなったそうだ。
氏の著作はほかにもあるようなので、ひととおりあたってみたい。これはあたり!である。