この本は変な時に読むとムチャクチャ自分の中に入って来る。たとえば、徹夜してしまったふらふらの朝など。そんな時にはふつうの経済書などはちっとも入って来ないのだが。つまり、現代社会常識に適応させた日常意識みたいな回路からの読み方ではアクセスできない事柄が書かれているのだ。そこが緩んでいる時に読むと、魔法にかけられたかのようになる。翻訳による誤差は重要ではなく、書き手(話し手)が魂から伝えようとしたことが突如として流れ込んで来るかのようだ。したがって読み進めていくうちに、読み方が貪るようになっていく。これまで外部から触れられたことのない身内の部分にコンタクトされるから。その部分はずっと自分に在ったのだが、これまで自分の外部とこのように明快に触れ合うことがなかったから、乾いた砂に沁み込むように入って来る。またそれ以上に、かつて誰か(=シュタイナー)が、これほど明晰に言語化していた事実に、驚嘆する。安堵もする。内側で感じていたことが妄想ではなかったことが自明となるから。
超感覚的なものとは何なのか? それがスッととわかるところに来ている人にとって、この本はものすごく有益だろう。個人が携わる職業というものが、単なる偶然ではないことはもちろん、心理学で言われている自己実現という合理精神的解説はかなり表面的だということもわかる。もちろんその考え方も有意義に違いないが、自己実現というのはエゴイスティックな発想が感じられどこかで違和感を覚える人たちもいるだろう。これを、心魂からの顕われとして観察するとき、自己実現という自分本位の事柄ではないことが合点できる。もっと深い、魂からの‘導き’とえいるものであり、それが充たされることで実現されるカルマの均衡へとつながっているものなのだ。カルマが成就すれば、成就による平安が達せられる。世界がいかに不和に満ちているかを考察するとき、このような視点から考えることが必要ではないだろうか? とも思わされる。
いま、今生で与えられた命が求める個人個人の道にこうして気づいていくとき、自ずと、命に対して敬意を覚えざるを得ない。学校教育で強調されている‘only oneの命’の、本当の意味合いは、ここにあるのだ。現代教育のそれはかなり情緒的なものに偏っているが。自ら探し求め、やがてはこのような究極の世界観に到達できる魂もこれからはもっと出てくるのではないか? そういうカルマの持ち主が今後もっと出てくるような気がする。3.11の後の未来を考えると、それが起きたタイミングや、歴史のカルマを考察すればそういうことが、歴史的カルマの導きとしてあるのかもしれないと思う。それに対して自分も心を澄ませておきたいと思った。