日本史の中で最初の著名人が「卑弥呼」なら、「聖徳太子」はその次くらいに来ます。
時代はまだ日本の黎明期にあたる飛鳥時代。
この頃はまだ天皇の権力は弱く、有力な豪族の力を借りずには政権の運営が出来ませんでした。
さらに朝鮮半島から渡ってくる渡来人により大陸の優れた技術が数多く伝えられ、仏教も崇拝されるようになりました。
ですが欽明天皇時代に伝わった仏教も当初は排仏派の「物部氏」と崇仏派の「蘇我氏」との争いが続き、
やがて両者の争いにまで発展していきました。聖徳太子は蘇我氏と縁が深かった関係上、蘇我氏に味方する形で物部氏を打倒。
しかし、これにより蘇我氏の独裁が強まり、本来ならば帝になるべきはずの聖徳太子も蘇我馬子の妨害で即位は為らず。
日本初の女帝である「推古天皇」の摂政として国づくりを行うこととなりました。
ですが、太子の人生は常に蘇我氏の権力の脅威の前に妥協と決断を迫られるものだったようです。
折りしも、朝鮮半島では百済・高句麗が勢力を伸ばして任那日本政府が滅ぼされる事態に直面。
地続きでなかったから簡単には攻め込まれなかったものの、大陸との戦の脅威が強まり、
これは聖徳太子の次の時代の「天智天皇」時代に白村江の戦いとなって日本の敗北に繋がります。
政治的には幼い頃から仏教を崇拝し、鎮護国家の思想に帰依した太子でした。
ですが、最終的には蘇我氏を滅ぼすことは出来ず、太子の死後、その子孫は蘇我氏に攻められ滅亡することに。
子孫に禍根を残してしまったことが太子の最大の無念ではあったのではないでしょうか。