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1 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
師弟の火花を散らす聖句解釈を望見させる,
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レビュー対象商品: 聖句の彼方―タルムード--読解と講演 (叢書・ウニベルシタス (512)) (単行本)
本書は、『タルムード四講話』『タルムード新五講話――神聖から聖潔へ』に続く論文集である。フランス語圏ユダヤ知識人会議の17・19・20・21回大会でのタルムード読解と、1969年から1980年までに書かれた10編の論考と講演が収められている。時期的には、主著『存在するとは別の仕方で』という書物をめぐって思索がなされていた頃である。訳者も言うように、本書に収められた文章には一種独特の緊張がみなぎっている。その緊張は「解釈」という営みに、この「間」の技法に収斂していくと訳者は推量している。そして、その点で何よりもまず挙げなければならないのはスピノザであり、スピノザこそが本書を形づくる三部門すべてを貫く背景だと訳者は言う。更に、近代哲学がスピノザという謎を思考し続けてきているのと同様に、モーゼス・メンデルスゾーンからデリダのような哲学者にいたるまで、ユダヤ系思想家たちもほとんど例外なく、スピノザという刺をどう飲み込むかに腐心してきたことも併せて指摘する。スピノザの『神学−政治論』はユダヤ教ならびに聖典解釈についてのその後の理解を決定的な仕方で左右する書物であった。このことは、同志社大学の手島勲矢教授が2009年に出した『ユダヤの聖書解釈』における中心的な論件であり、「スピノザと歴史批判の転回」という副題が冠されていることからも推し量れよう。 とはいえ、スピノザとレヴィナスとの関連について、評者は何も学んでいないので、別のことを述べたい。本書は、レヴィナスが「パレスチナ人」という言葉を用いたほとんど唯一の書物であろうと思われる。1969年のゴルダ・メイアの「パレスチナ人は存在しない」という発言を意識したのか、「序言」で「もはや今日では難民と言ってはいけない。パレスチナ人と言うべきであろう」と言い、その文脈で「ときには敵陣営のもっとも明晰な思想家たちと一致して、この敵対を緩和する時が来たと考えることもできるし、また、そうしなければならないだろう」とも語り、アラブ人学生も聴講するダン・アヴニ=セグレ教授の講義を紹介している。このことについてはサイードやチョムスキーの本も併せて読むといいだろう。 「パレスチナ問題」へのレヴィナスの態度について一言する。『神聖から聖潔へ』に収められた「第五講 火によってもたらされた被害」の訳注で、訳者の内田樹氏が述べているように、レヴィナスのイスラエルの政治へのスタンスは単純に定式化できるものではなく、非常にデリケートであり、時に矛盾しているようにさえ映ることがある。1982年に『聖句の彼方』が出版された際、レヴィナスは「約束の地」で何が起こっているかを知っていた。彼はシオニストではない。だから、「シオンへの帰還」を軽々に語ったりはしない。彼の語り口は、確かに歯切れが悪い。しかし、その歯切れの悪さは、誰も解答できない問いを前にして、ひたすら問いを深めてゆくことを自らに課している人が到達しうる希有の「口の重さ」なのである。それは知性の節度の現れでもあると思う。 この論文集の主要部分をなす「タルムード読解」は、ユダヤの聖典解釈において、いかに師弟関係が重要であるか、聖句の文字から「聖句の彼方」を聴取する道のりがいかなるものであるかを教えてくれる。なぜ一人で「聖書を読む」独学者のふるまいが斥けられ、師と弟子の火花を散らすような註解という営みが不可欠なのか。このことは、礼拝での聖書朗読の際に個人作業が常態化したクリスチャンにとっても、何ほどかの示唆を得られることと思う。
7 人中、3人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
5つ星のうち 5.0
レヴィナス。正義の人…正義なんと嘲笑にさらされている言語。だからこそ彼は尊い。,
By misidazai (多摩区) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 聖句の彼方―タルムード--読解と講演 (叢書・ウニベルシタス (512)) (単行本)
エマニエル・レヴィナスの言葉が、心に突き刺さる。…聞け!序文 から イスラエルーパレスチナ紛争を楯にとって、こうした精神化「タルムード読解あるいはシオニズム」に背くものすべてに眼をつむる事など誰に出来るだろうか?ときには敵陣営のもっとも明晰な思想家たちと一致して、この敵対を緩和するときが来たと考えることもできるし、またそうしなければならないだろう。 また彼はこうも言う。 「経験であるが無力な説教」「鼻持ちならない教条主義」「覇権的な一神教」といった決まり文句から成る時代遅れの哲学を起点としては、書物のユートピアと接しない場合に限られる。ユートピアなるものに対して、少なくともマルクス主義者エルンスト・ブロッホと同程度には現代的で哲学的態度を取る場合に限られる。 この書の最終章「政治は後で」は、更に深く心に染みる。エジプト大統領サダートのイスラエル訪問が、どれほど彼に、期待させていたか? しかし、結局は現実政治の不誠実により、裏切られるわけであるが。… 彼は共通聖典、聖句の彼方で、コーランの民とタルムードの民が、和解することを期待している。…だがヨルダン川西岸地域を囲む入植地の壁の建設が、彼の篤実の願いを阻んでいる。 リクードの御歴々には、彼の篤実の破片も無いようである。ユダヤドグマイズムが卑しく政治利用されている。
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