『キリスト教の揺籃期』でもトロクメ先生はパウロの宣教について書いているが、それはパウロが「つまるところ、どこでも挫折を味わったのであり、このために使徒行伝の筆者がひどく控え目なのである」(p.121)ということ。そして教父文書の「クレメンスの手紙一」でも内部分裂の状況が伺えることから、ローマでよく組織された一つの教会が形成されるのは紀元64年のネロの迫害以降だったと推察しているのだが、ここらへんのほのめかしを『聖パウロ』では「もう批判されてもかまわない」とでも開き直ったかのように吹っ切れたような書き方をしている。
それは囚人としてローマに送られたパウロは到着後も比較的自由に宣教活動を行ったが、長い確執があったエルサレム教会を代表するペテロがローマにやってくると「二人の使徒のあいだのあまり模範的ではない対立によって、激しい緊張が生じた。これが95年に執筆したコリント書のなかでローマのクレメンスが示唆しているものだろう」「(ネロが)放火犯として罰するめたにキリスト教徒たちを逮捕するという六四年における帝国警察の任務は二つのグループのあいだの相互の告発にとって容易なものとなった。こうしてそれぞれのグループの指導者が、他の多くの信者とともに、命を落としたのである。この際にパウロは、ローマ市民であったために残酷な刑を免れて、オスティア街道において処刑された」(p.125)という推測。
しかし、パウロの影響下にあったグループが手紙を集めることを思いつき、それを実行することによって、今日まで残る新約聖書のうち1/3までもがパウロの名前で書かれた書簡で占められるようなことになったといのだから感慨深い。