宗教とは何か。その問いに対し、多くの哲学者、神学者たちは「知」や「理」に則り、あくまでも思弁的に宗教というものを論じ続けてきた。また人は、宗教を倫理・道徳に結びつける傾向がある。例えばカントのような人は、「神の存在」「霊魂の不滅」「徳と福との一致」などを謳ってはいるが、それもこれも倫理的・道徳的成就のための「要請」によるものでしかない。宗教や信仰というものは、かくも「分別くさい」ものなのであろうか。
宗教はむしろその本質として「非合理的なもの」をもち、必ずしも理性・倫理の枠組に収まりきるものではない。それを看破したのが、この『聖なるもの』の著者・ルドルフ・オットーである。合理的・倫理的要素をすべてとりはらった「聖なるもの」をオットーは「ヌミノーゼ」と呼称した。「戦慄」「畏怖」「絶対接近不能」「優越」「力」「絶対他者」「魅するもの」などをその属性として持つのが「ヌミノーゼ」なのであろうな。
これと似たことは、我が日本の伝統文化の中にも見て取ることができるよ。例えば西行法師は伊勢神宮に詣でたとき次のような歌を詠んでいる。
「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」
「なんだかよくわからないけどすごくありがたいな。泣いちゃうよ」という意味であろう。理知的には把持できないものの、なにものかに魅せられて、感涙する。まさに「ヌミノーゼ」ではないか。
また本居宣長は神を「よのつねならず、すぐれたることありて、かしこきもの」と定義している。神とは尋常なものではなく、たいへん優れた働きがあり、そして恐ろしいものである、と。やはりオットーが謂う処の「ヌミノーゼ」と通底するものがある。
西田幾多郎もまた「場所的論理と宗教的世界観」において、カント的な「道徳の補助的機関としての宗教」を批判しており、べつのところではきっぱりと「宗教のことは世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない」と断じている。
また「神は死んだ」と宣言したニーチェも初期の著書『悲劇の誕生』のなかで「近代の宗教自体が、その根底において学者宗教に堕し、したがってあらゆる宗教の必然的前提ともいうべき神話は、すでにいたるところで、半身不随にかかっている」と言っている。
宗教の本質は得体の知れぬものなのだな。