評論集ー(考えるヒント)と言う題名を、小林自身が付けたかどうかは知らないが、題名は余りいただけないと思う。文を書き連ね、それを衆人に発表するという事は、ある意味で、自分の裸を見せるという事でもある。ある物事の洞察は、その人自身の知的な切れ味を、正直に曝け出しているからで、この小林の評論は、彼の思考というより、彼の心の働き、動き、理解、類推、同定、飛躍、そう云う諸々のものが、露わになって居る。小林の凄さは、その批判的精神、物事の奥に分け入る嗅覚とでも云う外ない。彼が、彼以外に真似の出来ない、刺激的思索を示すのは、小林のみずからの内観、その深さにある。この評論集を、穴の開くほど読んだとて、恐らく、「考えるヒント」には成らないであろう。思索には、その人だけの、波長がある、その波長を無視した所に、本物の思索は成り立たない。この評論集をジックリ舐めるように見て行くと、そこには、小林秀雄の心の旋律とでも云うほか無い、音楽を感じてしまうのだ。この音楽は、楽器こそ要らないが、確かに、人間の感受性の奏でる音楽でもある。プラトンの「国家」や「ヒトラー」や、個々の文を、どうこう言っても始まらない。単純に、言葉が理解と結び付いて居るとするのならば、その理解は皮相的なものであろう。真の理解は、恐らく言葉の次元では満たし得ない深さに在る。小林の真価は、この鋭敏な探究心の奏でる音楽で合って、如何なる人も、この心の音楽の奏で方、内面から流れ出る旋律を感じる聴覚と、言葉に秘められた感じる力が身に付けば、小林秀雄の評論集「考えるヒント」の最大の目的は、達せられたと云うべきだろう。
小林秀雄は、単なる評論家では無いのだろう。彼は、一種の独自の哲学者とでも云って好く、哲学者とは本来、孤独に耐え、思惟の冒険をする人の事だ。もしも、人間が知的な世界を、内に持たないとするならば、人間は、どんな孤独にも、耐え得ないだろう。若い時代に、その様な世界に触れて知ることが無いならば、幾ら金と物に不自由が無くとも、その人生は精神的に貧しいものだ。世には幾多の「小林秀雄論」があるが、幾つかのその論を読むと、噴飯物の内容であったり、どこかで、焦点がぼけていたりする。こと、思索家に関しては、その書き連ねた著書が全てだし、著作こそが本質を物語るはずである。物事の仔細に分け入る方法を、彼は誰に習った訳でもあるまい。彼が、目の前にある対象を、理解しようとして自らの心に分け入った、その道こそ小林の批評の本質なのだ。彼が、持ち出す「プラトン」や「ベルクソン」「本居宣長」にしても、心の趣くままに、それに向ったのであって、読んで面白いから夢中に成ったのに過ぎない。どうやら、小林は、読む事の達人であったらしい事がハッキリした。物事を真に知るとは、内面化への道であり、対象を深く掘る事である。殊更、外部から仕入れた知識の次元で、理解したと錯覚する事とは本質的に異なるものなのだ。自らが思索し抜いた事柄を正直に書くことが、批評の本質になることを信じたいものだ。