「要するに老人とは何かというと、人間じゃない、「超人間」だと理解するんです。動物と比べると人間は反省する。動物は反射的に動く。人間はそうではない。確かに感覚器官は鈍くなります。でも、その鈍くなったことを別な意味で言うと、何かしようと思ったということと実際にするということとの分離が大きくなってきているという特性なんですよ。だから、老人というのは「超人間」と言ったほうがいいのです。」(本書p.37)
上述の一文は、吉本隆明さんによる《老人》の定義だ。このことは『中学生のための社会科』(2005年)というテキストでも「老齢者は意思し、身体の行動を起こすことのあいだの『背理』が大きくなっているのだ。言い換えるにこの意味では老齢者は『超人間』なのだ」と述べている。「超人間」という表現の仕方に、先ず“吉本さんらしさ”がある。確かに実感として、私も時折、猪突猛進的に行動する場合があるけれど(笑)、「意識したこととやることの分離が、若いときや壮年時に比べてはるかに大きくなっている」(本書p.82)のは事実かもしれない。「超人間」という《老人》の捉え方が、第一のキーワードとなろう。
当書は、インタビュー形式を通じて、“老いること”と“老いの超克”を吉本さんに自在に語ってもらっており、ある意味では“老いに関する思想的な考察”ともいえよう。こうした語らいと「語録」の中で、吉本的な言い回しが随所に現れ出てくる。例えば「老人問題というのは、病気でいえば心身症」とか「ご老人の心身は、発掘すべき最新の考古学」とか「老人の自由度の拡大」とか「死ねば死にきり」とかであるが、最も吉本さんらしいのは、人間を「自己としての自己(個人としての個人)」と「社会的な自己(社会集団としての個人)」という捉え方、つまり初期マルクスの『経哲草稿』的な認識の仕方であろうか…。
この《人間存在》を「個」と「類」に弁別する「哲学」は、いかにも“吉本さんらしさ”を垣間見ることができる。このことは「やはり自分の中の個人、家族を入れてもいいですが、血縁としての一個人というのと、社会的個人といいましょうか、社会の中での個人というのを、老人ご自身が自分の中で自覚的に分離することができるのが理想だと思います」(同前p.56)というフレーズにも表意されている。それはそうとして、吉本さんの「結局、死については家族に囲まれて、家庭で死ぬことが一番幸福なのではないでしょうか」(同前p.222)という言葉は大いに首肯できる。私も「超人間」として家族に看取られたいなぁ…。