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頼朝は、関東の利害の旗印として祭り上げられ、用が済むと、一族は根絶やしに滅ぼされた。これは冷厳な事実である。頼朝は、実の弟義経を自己の政治の邪魔者と思ったかもしれないが、それこそが頼朝の最大の失敗であった。考えてみれば、義経死後10年後、何故頼朝は、謎の死を遂げた。それは鎌倉政権内における頼朝の立場の危うさを物語るエピソードではないだろうか。著者は、兄の政治的理想を理解しなかった。それが義経の悲劇という結論を導き出している。これは実は逆で、義経の思いを自分の政治的理想の中に生かせなかった頼朝こそ、源家の滅亡という最大の悲劇を招来した原因ではないだろうか。
もしも頼朝が、本物の政治家であるというならば、義経を自分の右腕として活用し、関東の利害を優先する偏狭な政治手法を執り続けるのではなく、京都も奥州も視野に入れた理想の国家を実現することを考えたかもしれない。そうすれば日本の歴史は、全く別の展開を見せていたかもしれない。しかし彼はそうしなかった。そしてそれ故に一族は滅んだ。
それから800年の歳月が流れた。世の中を見る。すると、政治の権力構造はともかく、藤原氏が創り上げた天皇を擬制の頂点とする日本の社会構造は、少しも変わってはいない。頼朝は鎌倉の北条氏に利用されただけではなく、平清盛の野望に翻弄された京都の藤原氏政権に利用されたのではないのか。そろそろ頼朝に対する過大評価という共同幻想をぬぐい去っても良いのではあるまいか。
最後に、この著の四三ページの中尊寺所蔵の義経の肖像が、左右逆になっていることを指摘しておく。
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