本書が題材とする天狗党の乱は、受験勉強レベルでは登場することもなく、幕末好きでも水戸の攘夷志士が逃げてきて慶喜に見捨てられた程度の認識だろう。
私は、敦賀また水戸に現存する鰊蔵を訪ねもしたが、それでも、天狗党の動きを幕末史の中で肯定的に認識することが上手く出来なかった。ひたすらに、彼らの狂気というか強い魂を感じはしたのだが。
本書前半は、激・鎮両派から更に幾つにも分派し、お互いが血で血を洗う水戸藩を、あたかも過激派の内ゲバのように淡々と描いている。誰に肩入れするわけでもなく、一般には醜く扱われる者も、主人公格も等身大の長所も短所もある人間として描いている。
しかし、後半になって、著者の取材尽力が偲ばれる 名もなき人々が実際には名も心も人生もある者と心を打つ生き様の描写が続く。幕末全体でも、実は屈指の死者を出した水戸藩。しかし、その数字だけでは、そこで起きたことの意味は伝わってこない。
「内ゲバで藩士の過半を失った」という客観的な評価は拭いようがないが、そこに至る間には、多くの人のイノセントな、つまり純粋であると同時に 大局的には愚かな それが両立する思いがあったことを、本書は伝えている。終盤、北陸の厳しい雪に行く手を阻まれる一行が見た雪の美しさが叙情的に描かれている。しかし、彼らが雪に重ねた彼らのイノセントな思いは、そこに辿り着くまでに多くの人々の思惑でその美しさを失われていたのではないか。澤地久枝女史が2.26事件を描いた名著「雪はよごれていた」の題名を思い出す。
内ゲバという言葉を多用したのは、浅間山荘事件に至る過激派の彷徨ルートが、天狗党の歩んだ路と、重ねて感じられたからである。