この『罪と罰』も同じ翻訳者による『カラマーゾフ』もすばらしい!と思います。ロシア語を勉強しておりますので『罪と罰』の原文を、いろいろな翻訳とつき合わせたりもしています。今までは江川卓氏の岩波版を標準としてましたが、亀山氏訳の方が原文の意図するところを、より生き生きと伝えているように感じます。『カラマーゾフ』同様、小さな誤訳はきっと発見出来るでしょう。翻訳者のクセもあるでしょう。でも、そんな誤訳やクセはどんな翻訳にも付きものだし、それで作品全体の意図が歪められたりはしないでしょう。ロシア語読解の実力はプロの翻訳家の先生方なら、誰にでもありあまるほどあるでしょう。でも、ロシア語の原文をこんなにわかりやすく、こんな自然な日本語に仕立て上げるセンスは誰にでもそなわっているわけではないでしょう。
世の中は広いので「この翻訳はダメだ!」とめくじらを立てる人もいるでしょう。私はそういう人達に「いや、この翻訳はいいんですよ!」と説得しようとするつもりも、詳細について議論するつもりも全くありません。そんなことは時間の無駄ですから…
これまで、私は亀山氏の翻訳に感動させてもらったとともに、翻訳というものについて深く考える絶好の機会を与えてもらったことに、いたく感謝しております。翻訳については、いろんな人がああだ、こうだ言いたがります。一種の野次馬的な快感すら伴います。推理小説の謎解きみたいでもあります。でも、私が一番面白いと思うのは、褒める人・批判する人によって全く正反対の主張をしている場合です。「真っ向から対立する価値観」とでも言えるでしょうか。例えば、哲学の理論についての議論であれば「真っ向から対立する価値観」がこんなに赤裸裸に表には出て来たりしないでしょう。翻訳についての議論の場合は、本当に「価値観が対立する」なんて生やさしいものでなくて、「人間の種類が違う」感じがします。だから、私は、私の反対の立場の人達(私とは違う種類の人種)に「これは良い翻訳ですよ!」なんて言えません。
恐らく、この『罪と罰』も前回の『カラマーゾフ』と同じく、ある人達から「目の敵」にされ、さんざんたたかれることでしょう。そして、再び、大変な話題作りをするでしょう。理由は? 一つは、彼らの嫌いな亀山氏の翻訳だから。もう一つは、ドストエフスキーの『罪と罰』だから! あの世ではきっとトルストイも、シェイクスピアも、ゲーテも、セルヴァンテスも、ダンテも「自分も翻訳のことであんな風に騒がれてみたいよ!」とつぶやいていることでしょう… そう、ドストエフスキーというのはそれぐらい偉大なのです。だから、読んでない人はぜひ読みましょう。私の書いてることにちょっとでも共感される方は、この版で、そうでない方は正反対とも言える工藤精一郎氏の版(新潮文庫)で。