はしがきで、「今日天台宗は、浄土真宗や、禅宗はもちろん、同じ平安仏教の名で呼ばれる真言宗と比べてすら、著しく力の弱い宗派となっている」と著者は指摘する。
なぜ、そうなったのか? ブッダ釈尊の志をどのような誓願で受け止めて実践しようとするのかが伝わらないからと思われる。
最大の理由は、直感では分かりにくい用語を未だに使い過ぎかも知れない。例えば、天台宗の「性具」(仏性を具えるから)と華厳宗の「性起」(仏性が現起しているから)は、議論するほど違いは無い。パーリ仏典『律蔵』の「大品」を読めば、青年ヤサのように頓悟出来る者は「性起」と言えようし、ヤサの両親の様な漸悟の場合は「性具」と言えば良い。
次に、天台法華の真理観である「三諦・三観」も、唯識の三性と比較した方が実は分かりやすい。
(1) 仮諦観 ⇔ 遍計所執性(構想された存在、凡夫の日常の認識の特徴)
(2) 空諦観 ⇔ 依他起性(相対的存在、他に依存する存在の特徴)
(3) 中諦観 ⇔ 円成実性(絶対的存在、完成された存在の特徴)
清涼大師澄観と妙楽大師湛然が『法華経』と『華厳経』のいずれが一番かと云う宗論をしたのであるから、相互に改善が施され、似ていても不思議ではない。
宮元啓一氏によれば、<釈尊は、釈尊以前に知られていた「輪廻と解脱のメカニズム」の根本に「根本的生存欲」があることを突き止めた>と指摘する。この指摘は釈尊の教法を深く理解するための慧眼である。これを「四聖諦」と比較すると、「輪廻のメカニズム」は「苦諦」であり、「解脱のメカニズム」は「滅諦」であることが分かる。これらの「苦諦」・「滅諦」は「基本原理(法則)」なので、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る推論(=演繹法)を用いることが可能である。
ところが、「集諦」と「道諦」は「基本原理(法則)」ではない。なぜなら「集諦」と「道諦」は個人ごとに異なるからである。従って、「集諦」は個々の事象から事象間の本質的な結合関係(因果関係=縁起)を推論し、結論として一般的原理である「苦諦」を導く帰納法のプロセスでなければならない。同様に、「道諦」も個々の事象から事象間の本質的な結合関係(因果関係=縁起)を推論し、結論として一般的原理である「滅諦」を導く帰納法のプロセスでなければならない。「道諦」が「三十七菩提分法」で示されることがその証拠である。
このように整理をすれば、様々な仏教思想を次のように「四聖諦」と対比することが可能になる。すなわち、部派仏教(上座部)アビダルマの「五位七十五法」や「唯識思想」は、「集諦」を「基本原理(法則)」として理解しようとするものであり、「般若経」「維摩経」「涅槃経」・「中観思想」などは「滅諦」に焦点を当てた創作小説的な経典・論書であり、「華厳経」「法華経」「浄土経」・「密教思想」などは「道諦」に焦点を当てた創作小説的な経典・神通発現マニュアルである。
釈尊がブッダである所以は、自分には無理と感じさせる「基本原理(法則)」の「滅諦」で終わらずに、「変身の選択肢」である「道諦」を示すことで希望や勇気を与えてくれたことである。
五時教判の経典史は間違いであったが、法華経の道諦と涅槃経の滅諦とを並べたのは慧眼である。