鴨長明、日蓮、寺田寅彦、岡潔、和辻哲郎、宮沢賢二……。時代時代の宗教家、思想家の言葉を追いつつ、私たちが災害や不条理や死とどう折り合いをつけてきたのかに思いを馳せる。老学者は元暦の大地震、鎌倉大地震、明治三陸地震、昭和三陸地震、そして今回の地震を変らぬ距離感で見つめながら、「無常の普遍性」をおだやかな語り口で説く。無常を受け入れたうえで鴨長明のごとく風流にしたたかに生きていく知恵が日本人にはあるはずだと。
宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』にも色濃く反映された「世界が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という世界観は、トルストイの『人生論』の課題と重なると思ったが、本書ではさらに「世界の幸せも個人の幸せも」と言いながら、いつのまにか「世界の幸せか個人の幸せか」に問題がすりかわっていくことの危さに触れている。私たちは危機においては個人を犠牲はやむを得ないと当たり前のように考えてはいないか。
地震とは直接関係のない章のエピソードのなかで興味深かったのは、生涯を通じてキリスト教徒であった神谷美恵子が晩年に抱いた大いなる疑問である。人生の盛りである30歳で十字架にかけられて亡くなったイエス・キリストは、60歳をこえて病と戦いながら死に近づいている自分の苦しみを本当に理解して救いえるだろうかと悩み、そのときに思い浮かんだのが80年の生涯を生きた仏陀の存在だったという。仏教でいう林住期を迎える前に受難し復活を遂げたイエス、聖俗の間を行ったり来たりしながら苦行の林住期を経たのちに悟りをひらいた仏陀。人生経験の違いは世界観の違いともなる。
古今東西の宗教は、究極の無常、つまり人間が死ぬというその一点に注ぐ無数の川のようである。著者に手引かれて仏教、ヒンズー教、キリスト教、そしてまた仏教とぐるりとまわって帰りついた先からが自分自身の思索の始まりである。