ここから理性に関する部門。カントでは、知性(悟性)は経験(対象)の認識と判断の領域。知性の場合は、経験が基盤になるので、必ず「根拠」を問われることになる。根拠(条件)は、そのもっと基盤となる根拠へと遡及される。原因―結果の系がまさしくそれで、知性は、この系列を扱う領域。しかし理性は、このような一切の制約をもたない究極の物(理念)を求め、それを得ることで、知性界の系列も完結させる。別言すれば、理性とは、理念(無制約なもの)を見出し、原理を建てる能力ということのようだ。たしかに、「知性」を普通の意味の「理性」と考えてしまって、その確からしさだけ問うように見えるのは後年の論理主義、実証主義がそうで、視野狭窄的且つどこか現実の人間能力とは異なるいかがわしさがあるので、カントの理性の示唆は、とても視野が開け受け入れやすいようにも思える。が、しかし、果たして知性や理性がそのように分かれるものなのか、ぼんやりしたものも残る。翻訳者は、表題の「純粋理性批判」の「理性」はここで検討される理性よりも広い意味で、知性や感性を包摂する、と巻末の解説で述べている。そうかもしれない、とも思うのだが、、微妙で、カント自身、翻訳者の言う狭義の「理性」を表題にしているような気もする。事実、これからは理性の不可避的な踏み外し、「誤謬推理」の種類が説明されて、「理性の失敗談」が話の中心になってしまうかのようだ。「批判」とはこの件ではないかとも思う。この巻は、独特のわかりにくさがあるのだが、前の巻までは「経験」をイメージしながら理解できるが、ここでは、著者自ら言うとおり、もはや「経験」から離れた能力の運用の検討に入るので、題材がイメージしにくいところがある。分かりやすい翻訳を持ってしても、たとえば、デカルトの「われ思う」の命題に対するカントの解釈もとても難解なものだ。だが「哲学」の本来の領域に入ったとも言える。総じて最後に付録されている「初版」が直截で分かりやすく、それは、いままでの巻でもそうであった。種々の誤解や拡大解釈への防御的な「第2版」は筋が見えにくい。できれば、まず初版を先に読んだほうがよいかもしれない。