この小説の主人公は炊屋姫と叔父の蘇我馬子。
「色白の美貌、引き締まり冴え切った」顔つきの姫は、夫・敏達帝の没後忠実な警備隊長と恋に落ち身をこがす。が、かねてより姫に野心を抱いていた異母兄・穴穂部皇子の手にかかり愛人は殺害される。中年にさしかかった女の恋は激しく、それだけに殺害者穴穂部とその協力者・物部守屋に対する姫の怨念は深い。
ここに、蘇我氏を率いる叔父の馬子がいる。父稲目の遺志ー仏教導入により「天と日」を祭る大王家の神格を下落・相対化させ、物部氏(軍事・警察・宗教司祭を握る)を始めとする大王家の群臣を圧倒するーを受け継いで蘇我氏による実権確立を目指す野心家である。彼は姪の意向に沿い、あるいはこれを利用して、穴穂部はじめ複数のライバル皇子達を殺害・排除し、遂に姫の実兄、即ち自分の甥を敏達帝の後継者に据えることに成功する(用明帝)。かくて稲目は天皇の外戚となる。
ここまでの経緯はよく知られたことで、小説に描かれる美貌の後家の「紅蓮の恋」と怨念、それを利用しながらの馬子の権謀術策については特に新味はなかったが、黒岩氏の視線はむしろ、この後の<姫の変身>に注がれているようである。
あれ程憎んだ穴穂部も物部守屋もいなくなった今、仏前に坐した姫は言いようのない虚ろな思いにとらわれる。傍らに坐すのは幼い厩戸皇子(聖徳太子)。14歳で対守屋戦に従軍し、戦いのすさまじさを目撃し傷心を抱いている。二人には何か心通うものがある。そこへ物部を滅ぼし、用明の後継者・崇峻帝をも謀殺した自信満々の馬子がやって来る。次の大王を決めるためだ。今や姫には自分を利用しつつ権力拡張を図った叔父の姿がよく見える。これまで最愛の竹田皇子を大王にと願ってきた姫ではあったが、権謀の渦中に幼い息子を投ずる意欲を失った彼女は、自分が大王になろうと決意する。「あの美しい飛鳥の都で、私は大王になるのです」
姫を大王にまつりあげ、厩戸皇子(用明帝の嫡長子、馬子のむすめ婿でもある)を皇太子に指名することが馬子の思惑であったからこの運びに満足する。だが今後も姫(今や推古帝)は馬子の言うなりになるのだろうか、厩戸皇子の心中に育ちつつある「厳しく清冽な人間的ロマン」が馬子の政治的権謀術策といつの日か衝突することはないのであろうか、それはこの後の作品
聖徳太子―日と影の王子 (1) (文春文庫)、
斑鳩王の慟哭 (中公文庫)に委ねられる。