この本が発売された数年後に通読した時に、著者の真摯な思考の過程が表れており、感銘を受けたが、
私のラカンとビオンの咀嚼が十分でなかったため中途半端な理解にとどまっていた箇所がいくつもあった。
約6年後、臨床漬けの日々を過ごして、クライアントとの膠着状態でぐったりと疲れた夕方、本棚の片隅のこの本を再び通読した。
眼から鱗が落ちる箇所が何か所もあった。
「フロイト以降の分析家に欠けていたのは何よりも勇気ではなかっただろうか。精神分析の歴史において、「ペスト」という未知の転覆的要素が執拗に避けられてきたのも、そこから全く予想不可能なものが出てくることを分析家は何よりも恐れたからである。」p10
「精神病の構造を去勢の排除にあるとし、治療によってこの基本構造を変えることができないと考えることは、精神病に対する治療的なニヒリズムを招く可能性もある。」p23
この言葉が、一般には「机上の空論」に終始する理論家が多いラカンを学んだ分析家から出ることは勇気づけられるし、丁寧で地道な臨床活動が日常にあることを感じさせる。
特定の精神分析理論漬け、臨床漬けの日々で、漬物のように発酵が進んでいる時期に、新たな息吹を送り込んでくれる第2章「認識論的展開」は、ブランクを経ても新鮮味を失っていなかった。
「精神分析は芸術を必要とする。それは一つにには、治療が習慣化した平板なものにならないように、分析家は感覚のカイロを日々新たにしておく必要があるからである。また分析家は芸術経験を経ることによって、患者の感覚や情動の回路を把握する感性が鋭敏になる。」p107
精神分析の本は著者の臨床経験の裏打ちが、じわじわと言葉に滲み出す側面がある。
知性化や教条主義と格闘しながら地に足をつけて考え続ける姿勢、オリジナルの思考を模索する文章は、精神分析、精神病理学、哲学をつなげる「稀有な」臨床活動であろう。