自分は先祖の代からの真言宗で、いわゆる「お大師さん」信仰が身近にあるような環境で育った人間なのだが、
それだけに真言宗への親近感や尊敬とともに、「どうもついていけんなあ」「それはうさん臭すぎはしないか」
というような鼻につく独特の「臭気」についても色々と考える所があったように思う。
(司馬遼太郎の「空海の風景」が優れているのは、真言密教に不可欠なこの「うさん臭さ」について目を背けず、
密教の本質にかかわる重要な構成要素として見ている点だと思う)
本書は、久々に現れた空海についての良書という事で読ませていただいたのだが、上に述べたような観点から見ると、
本書は学術的な体裁は取っていても、あまりにもお大師さん「信仰」的な枠の中に嵌りきっており、色々と新しい
観点を入れているようではあっても、結局は「お大師さんは凄い」「凄い凄い、どう凄い」「結局、お大師さんの凄さには
追いつけない、理解しきれない」というだけの結論に収まっていて、読者として新しい収穫はなかったように思う。
お大師さんに対する賛美追従の類には、もうお大師さんご自身がいい加減ウンザリしておられるだろうし、「自分を踏台にして
自分を超えるくらいの学者や僧の類は出てこないのか」と期待し続けておられるように思う。
結局、今日真の意味でお大師さんを捉えなおすには、お大師さんが設定した真言密教至上主義の論理の枠から脱出して、あるいは
真言密教を凌駕した体系であろう(真言密教の後世に成立しているので蓄積上、当然だが)チベット密教などの観点から評価を
再構築する、あるいは他宗の真言密教批判、お大師さん批判を徹底的に祖述し、批判的観点を極めつくしたのちに初めて真言密教の
本質、優位点を再確認する、といった他者からの視点を取り入れなければ駄目だと思う。
そうでなければ、単なる「内輪ぼめ」「個人崇拝」の類から一歩も出られず、真言密教という財産を活用することもできないように
思うのだが・・・。