本書における著者の立場は一貫している。
それは、世に言う空爆とはすべて「無差別爆撃」である、という立場である。
仮に純粋な軍事基地等の破壊を狙ったものであっても、民間人の死傷の可能性を「付随的損失」
として片付ける、軍の論理そのものが「無差別」だというのである。
本書が扱うのは特に第一次大戦以降の爆撃戦略の論理・思想・実態であるが、上のような前提のもと、
記述がなされていることをあらかじめ認識しておくとよいと思われる。
基本的な事実を丹念に追っている点は、評価できる。
しかしながら、上に書いた前提のためか、いささか強引な解釈も見受けられる。
アメリカにおける戦略爆撃理論の展開に続いての文章である。以下若干長いが引用する。
――
したがって、「精密爆撃論」であろうと「戦略爆撃論」であろうと、その論理展開の背後に
隠されている真の狙いは、戦争の早期終結などではなく、市民を無差別殺戮するその犯罪性を
疑似科学論で巧妙に隠蔽し、その罪を犯す加害者自身の良心、ひいては加害国の国民全体の
集合的良心を幻想で眠らせ、あるいは麻痺させることに他ならない」(132頁)
――
これは、精密爆撃が本質的には無差別爆撃であり、そのことが軍事理論家たちに少なからぬ
良心の咎めを呼び起こさせることが前提となるが、果たして彼らはそこまで考えていたのだろうか。
経験の不足から、理論とはいえない理論を構築していった、という著者の指摘は恐らく正しいが、
上のような解釈は少々強引ではないかとも思う。
別の書評でも書いたが、当時のアメリカによる戦略爆撃の変遷は、徹底した「効率化」の
過程であったと考えるほうが、少なくとも私にはしっくりくる。
戦争の勝利を至上目的とし、そこに至るためには「敵国市民の士気の喪失」が必要であり、
それをもたらすためにはどのようなやり方がもっとも適切なのか。
こうした倫理観を排除した徹底的な合理主義こそが、軍の理論だったのだろう。
最終的には、(少なくとも市民に恐怖を与えることを目的とした)無差別爆撃は、
軍事的な観点から言っても効果が薄い、というのが著者の主張だろうと思う。
では、「付随的損失」の可能性が常にある、現代の誘導ミサイル等を用いた「精密爆撃」が
持つ戦略的な影響力について、著者はどれほどのことを言うことができるのだろうか。